「申し訳有りません、本日体調が悪いので休みます」

ドキドキしながら上司に送ったスラックは、すぐに「わかった。無理しないようにちゃんと寝といてな、仕事はこっちでやっとくから。お大事にな」と返信が来た。罪悪感を覚えながら、有給の申請も続けて行った。上司が気をつけてみてくれていたのだろう、こちらもすぐに承認された。
私は拍子抜けした。こんなに簡単に休めるんだ。なにせ、私の出席簿は、小学校と高校は無遅刻無欠席、中学校はインフルエンザで休んだ4日だけ。だから休むという行為に対して、ものすごくハードルが高かったのだ。

そんな私が、人生で初めてズル休みをした。それくらい限界だったのだ。

もっともっと、仕事がしたい

この"ズル休み"、もとい"自分と向き合う休暇"をしたのは、会社に入ってちょうど半年くらい経ったときだった。仕事にも慣れてきて、一人でできることも増えてきた。仕事はやりがいのあるものだったし、周りの先輩も同期も優しかった。何も不満があるはずがなかった。

「早くもっと仕事ができるようになりたい」「成長したい」、そんな想いでひたすら仕事をした。土日もほぼ会社に行った。会社に行かなかった日はカフェで仕事に関する本を読むというように、本当の意味で仕事に関係のない日を過ごしたことはなかった。もっともっと、仕事がしたい。もっと早く走りたいのに、足が追いつかない。そんな気持ち。

何事も自分のせい。そう信じていた。

辛いこととか、仕事が嫌になったことはなかったのかって?もちろんあった。でも、入社してすぐに、"新入社員の心得研修"のようなものがあって、そこでは何事も"自責"にすることが大事と言われていた。できなかったら、自分の責任。たとえば、何人かで分担した仕事で、私が納期内に終わらせて、他の人が納期に間に合わなかった場合、「もっと手伝いましょうか?とか声かければよかった」、「もっと進捗確認しておけばよかった」というように、自分のせいにしていた。

全部自分ごととして捉えろ。当事者意識を持て。人のせいにするな。できないことなんてない、本当に世界中の誰にもできないのか?孫さんにも、スティーブ・ジョブズにも?誰かができるなら、自分にだってできるはずだろ、同じ人間なんだから。

そんな崇高な考え方を、妄信的に信じていた私は、「これは私が悪いんだ」とすべてのことに対して思っていた。完璧や理想を求めれば求めるほど、広がっていく現実とのギャップ。逃げ出したい、そう思う自分さえ忌み嫌った。なんて意識が低いんだろう。そうして、昨日も今日も働いたし、明日も明後日も働いていくのだと思っていた。

心が上げていた悲鳴にやっと耳を傾けた日

ある日、同期で仲のいい女の子に、「今日夜サク飯しようよ」と誘われたので、「行く!」と二つ返事で誘いに応じた。もちろん、ご飯を一緒に食べた後は会社に戻るつもりだった。

彼女は、会社から離れたおしゃれな個室に連れて行ってくれた。恋バナ、ゴシップ、服、とめどなく話をした。その中で、彼女は「最近仕事はどう?」と尋ねてきた。「楽しいよ」と私は間髪入れず答えた。「そうね、でも少し働きすぎじゃない?」彼女はまた尋ねる。「そんなことないよ」「そういえば、プロジェクトの進捗はどうなの?〇〇さん遅れがちだったみたいだけど」「私がうまく伝えられてないから…」「それあんたのせいじゃなくない?」「でも私がもっとうまくできたら…」

彼女は黙り込んだ。
「あのね」。そう言って私の目を見ると、ゆっくりと言葉を紡ぐ。「なんでもかんでも自分のせいにしすぎ。いつも生き急いでるように見えるよ、余裕がない。愚痴の一つも言わないなんて、壊れちゃうよ」

私はガツン、と頭を殴られた気分だった。気づいたらポロポロと涙を流していた。「本当は、ちょっと、疲れちゃってたの」。しゃくり上げながら言った。彼女は私が泣きながら話す間、ずっと黙って聞いてくれた。

自分と向き合う休暇取得

「休んじゃいなよ」。彼女はいたずらっぽく笑った。
「そんだけ心が悲鳴あげてるんだよ、休みな、ご自愛が大事だよ。体崩したら休むでしょ?同じように心も崩してるな、調子が悪いな、と感じたら休むんだよ。明日は休み、決定。温泉でも行ってゆっくりしてきな。自分の心の声をちゃんと聞いてあげなきゃだめだよ」。

そうして、私の"自分と向き合う休暇"が決行された。休んだ日は、温泉に浸かって、美味しいものを食べた。ああ、なんだ、私ずっと傷ついてたんだ。心に蓋をしていた思いが溢れてきた。すっかり元気になった私は、なるべく土日は仕事と離れ、思い切り遊ぶようになった。そうすると、逆に仕事がうまく回るようになってきた。
あの日、体調不良だとついた嘘は、私を救ってくれた。