高3の夏。最初で最後のインターハイで、私はボロボロの結果を叩き出した。初めて全国レベルの選手を間近にし、圧倒的に競技力が劣っている事実を突きつけられた。今度は強いと言われる大学に入ろう。競技を続けよう、と決意した。その決意を胸に勉強を続け、無事に合格し、第一志望だった大学へ入ることができたのだ。

計算外だった「1年生の仕事」

それなのに、あんなに待ち望んでいた体育会での活動が全く上手くいかなかった。
体育会あるあるの「1年生の仕事」が全くできない。同期の1年生たちは、先輩が重い機材を持とうものならすかさず声をかけ、先輩に代わって率先して自分で運ぶ。一方私は、常に気を張り詰めていても先輩が重いものを持ったことにすら気がつけない。体育会では致命的だった。

他にも「タイムキープ」というものがあった。練習やミーティングが始まる前に「練習開始10分前です!」「~5分前です!」「1分前です!」「時間です!」と1年生が言う決まりだった。1年生ならだれでも良いのだが、私はこれが本当に苦手で、「あっ!」と気づいた頃にはもう遅く、同期がコールをしてしまう。

私だけができない中で、練習後に1年生指導係の先輩たちに同期全員が呼び出された。
「この中に、1年の仕事を全くやらない人がいます」
から始まった先輩の話は、名指しにしないまでも私のことを言っているようだった。

自分の至らなさをわかってはいたが、同期を集められ、みんなの前で注意されたことがショックだった。きちんとやっているのに一緒になって怒られる同期に申し訳ない気持ちになった。

1年生の仕事は、これら以外にもいくつもあった。私はそれらを把握したつもりでも、次の練習ではもう忘れてしまっているようなポンコツぶりだった。

憧れの2人が華々しくデビュー

女子チームの同期は私以外に2人しかいなかった。しかもその2人は高校生の頃に全国1位の成績を取ったことがあるチームの即戦力だった。2人が華々しくデビュー戦を飾った後ろで、私はそれを応援する側だった。

競技面では役に立てない私が全く1年の仕事ができないとなると、肩身が狭い思いがして、どんどん気が滅入っていく。同期の2人は実力があるのにちっとも偉そうにすることなく、1年の仕事を積極的にこなした。

失敗メモを常に持ち歩いた

私は、自分が「できるところ」は絶対にやろう!と息巻いた。必要とされたくて、貪欲に笑いも取りに行った。

怒られたり、できなかったりしたことは毎日メモをとって、改善点を考え、そのメモを後生大事にするレベルで常に持ち歩き読み込んだ。夜眠る前は、明日の練習ではミスをしませんようにと祈りながら眠った。それでもミスを繰り返してしまった。

家が遠かったので、朝5時に起きて、2時間半かけて電車とバスを使い、大学のキャンパスにある練習場所へと向かう。

「今日は失敗しませんように、ミスをして、同期を罰ランニング(ミスをすると、同期全員が連帯責任で罰としてランニングをさせられる)に巻き込むことがありませんように……」

毎朝そんなことを思いながら電車に乗っていると、気持ち悪くなった。けれど、仕事でミスをせずに、気持ちよく体育会で競技をやるためなら何を差し出してもいいと思っていた。

私に起きた異変

体育会へ入部して数ヶ月。ある日から、自分の貴重品が管理できなくなった。

1ヶ月のうちに、定期を3回、携帯を4回失くした。親に怒鳴られ、なじられたのはもちろん、携帯がないと部活での連絡手段がない。連絡手段がないということは、細々とした指令や連絡を受け取れないばかりではなく、同期との仕事の確認や相談が全くできないことを意味する。焦って焦って、どうしようもなくなった。自信も希望も祈りも、その頃には消え失せていた。

親に頼んで病院へ行かせてもらい、何時間にも及ぶテストや検査をした。

診断は、注意欠陥障害。発達障害だった。

「みんなと同じになるための薬」その副作用との戦い

薄々みんなとはどこかが違うということは感じていた。

「自分はまだスタートラインにも立てていなかった。みんなと同じことをしていたら、同期2人には追いつけないはずだ。スタートで遅れているなら、その分、みんなより倍、努力をすればいい話だ」

カプセル錠剤が処方された。健常者より少ないノルアドレナリンを、健常者と同じくらい脳内で一定量に保つ薬だった。
一日2錠で、ひと月に9000円弱の負担は重かった。
副作用の吐き気が出たが、それでも飲んだ。

毎朝部活へ向かう電車の中で、冷や汗をかきながら吐き気と戦うのが日課になった。

本当に吐きそうになっても、吐いてしまっては薬も一緒に出てしまって意味がない。絶対にこらえた。

一度、どうしても我慢できず、途中の駅で降り、1人トイレで吐いた。吐いても止まることがない吐き気と、部活に遅刻するという焦り。便器に顔を近づけて出るものもないのに吐きつづけた。みじめになって、泣いた。

部活は無断で遅刻すると、連帯責任で同期全員が走らされてしまう。
涙を拭い、震える手で遅刻の連絡をメーリングリストで回した。

溢れる無力感、悔しくて、頬を伝う涙は止まらなくて、自分の障害を呪った。こんな調子で、いつになったら同期の2人に追いつけるのだろうか。
そんな落ちこぼれ1年生の私でも、何とか部活をやっていけたのは、紛れもなく同期たちのおかげだった。女子の同期2人が遠征に行く間、私は1年生1人でお留守番練習だった。

そんな日が続くと、同じく留守番練習をしている男子の同期たちと話すことが多くなった。1年生の仕事で一緒にいる時間も長く、徐々に仲良くなっていった。

しかし、遠征で同期2人がいないと、女子のみの練習では私が1年生の仕事をほぼこなさないといけなかった。夜眠る時、涙が止まらない日が多くなった。

私は思い切って、同期の男子1人に自分の障害のことを打ち明けた。面白いけど真面目で、口が固くて、信用ができて、この人なら障害のことを話しても、バカにしないと思ったからだった。

「もし大丈夫だったら、私は先輩の指示がよくわからなかったり、ボーッとしている時があったり、うろうろしている時があったりするから、何をすればいいのか具体的に声をかけて欲しい」とお願いをした。

その同期は、「わかった、教えてくれてありがとう。監督と他の同期にも言ったら、もっと助けてあげられると思う」と言ってくれた。

私の中で、その当時に限って言えば、障害があると言うのは本当に恥ずかしくて内緒にしたいことだったから、みんなに言うのは嫌だった。どこから広まるか、考えるだけでも怖かったのだ。

パニックになる前に助けてもらえるようになると、部活中、少し気持ちが楽になった。
相変わらず苦手な仕事は多かったけれど、同期のおかげで、少しずつできるようになっていった。

薬も、飲めば少しは効果が実感できて、副作用は本当に嫌だったけれど、段々と良い方向に向かっていった。

カミングアウトから得た学び

勇気を出して同期にカミングアウトして本当によかったと思った。

カミングアウトが必ずしもいい結果になるとは限らないけれど、一人で何もかもが嫌になっていた私にとって、味方がいてくれることが、こんなにも心強いことなのだと教えてもらえたのは、いい経験だったのだ。

カミングアウトで悩む方に簡単なことは言えないけれど、カミングアウトしなくても、どういう風に助けてもらいたいのか、具体的にお願いすることはとっても意味のあることだと思う。これが、泣いて、祈って、だめで、1人で空回りして、自分だけができないやつだという自己否定の嵐から、少し持ち直せた私が得た学びだ。