どうしたら、他人の目を気にせずに、自分がしたいように生きられるだろうか。そもそも他人の目を気にしない、自分がしたいように生きるって何だ。

世の中の常識に違和感を抱くことが多くなったのは、大学生の頃からだ。それまでは、そこまで深く考えず、でも自分の存在を認めてもらうために、世間や他人から求められている(と錯覚している)要素をクリアしようと努力していた。それにがんじがらめになっていた当時の自分を気の毒に思うが、そもそもなんでそんな錯覚が生み出されたのだろうか。

それは、身近な他者やメディアから、その人の常識や世間の主流の空気を、いつのまにか正しいものとして浴びていたからだと思う。

友人の告発「髭が生えている!」

友人がみんなの前で、私の口に「髭が生えている!」とまるで正義の告発かのように叫び、恥ずかしい思いをして正しい身だしなみを学び、男子の「好きな女子発表会」で自分の名前が上がらなかったのを知って、自分のモテなさをわきまえた。

回し読みされる少女漫画から、理想の青春や恋愛を学んだ。へー、好きな人とセックスすると世界が変わってこんなにきれいになれちゃうんだ! 朝の日差しもお肌のハリも違うんだ! 映画やドラマの女優たち、芸能人から、こういう綺麗な人たちが“女”だと学び、一方であるテレビ番組からは、ブスは不幸であると学んだ。さらに、コンビニに並ぶエロ本や弟がパソコンに残した履歴から、“男に求められるエロい女”の顔や体型、仕草を知った。

小学生までは、もさもさ髪で平気で登校し、ヨモギの葉を1日中集め、土手の鳩に友達の家のお米5キロを全部あげてしまい怒られ、土手の藪のホームレスの方達が住む場所に秘密基地を作ってしまい、弟たちとキャンプ場で魚手掴み大会で取り逃がされた鱒を捕獲していた。今思うと毎日好き放題で、性別など微塵も意識していなかった。

しかし、中学高校と、どんどん他人の視線の渦に巻き込まれ、塞ぎ込むようになり、当時の写真は笑っているものがほとんどない。

当時の私が、勝手に自分が求められていると思っていた規則は、「自分はかわいくないから、かわいいものは身につけてはいけない」「恋愛をする権利はない」だった。

でも、同性間ではハブられたくなかった。だから、ボーイッシュで面白いというポジションを獲得しようとした。髪はベリーショートにし、女友達を笑わせることに尽くし、FUJIWARAの原西の一発ギャグの真似をしていた。自分の身にそぐわないことはやらないよう、細心の注意をしていた。

可愛いものは捨てられたり見せ物にされたりした

しかし、ボロは出る。本当はこっそりレース付きのブラジャーを原宿に買いに行き、ラメ入りのマニキュアや真っ赤なリップをドラッグストアに買いに行き、家で一人の時にスカートを異常に短くして、エッチな女の子ごっこをしていた。でも、それが見つかる度に誰かに釘を刺された。「こんなのあなたには似合わないよ」「身の程も分からないの?」

部屋にあったマニキュアは友達に勝手に捨てられた。修学旅行に持っていったレース付きのブラジャーは、あれよあれよとみんなの前にひきずり出され、原西がこんなの持ってる~!(笑)と見世物になってしまった。父親にも、食卓でピンクのセーターを着ているのを笑われた。お前、そんなもの着てるのか(笑)。自分の部屋に出来るだけ静かに戻り、二度と親父には心を開くまいと泣きながら誓いを立てた。

いま思えば、釘をさすのが大好きな人たちは、自らの不自由さを、他人に釘をさすことで証明していた、小さい人間に過ぎなかった。釘を刺して、私が自らの価値観の側から離れないようにしたかったのだ。

子供にそんなこと言っても仕方ない(父親は別)。とにかく、私が女の子らしいことをすると、必ず猛烈な批判を浴びた。私自身もそういう自分に自信がなくて、いつも羞恥を感じていたから、余計にうじうじしていて虐めやすかったんだろう。

でも、本当は自分が可愛いものやピンクや、ワイヤーでガチガチのレース付きブラを本心から好きなのかも、よく分からなかった。もっと好きなものがこの広い世界にはあるんじゃないか、という予感と不安はいつもあった。でも当時の狭い世界観では見つからなかった。

ベリーショートの髪も、裸で地上に現れるシュワルツェネッガーも好きだった。男になりたいと思う時もあった。でも、当時は男子に触られることを考えると、下半身がギュンとなって、ネバネバしたものがパンツに付着する自分と原西やシュワルツェネッガーは、全く相性が悪かった。

母親に聞くと、“おりもの”だという。あまり気にしなくていいと言われ、ますます混乱した。おりもの、なんて綺麗な名前だけど、実物は全然綺麗じゃないし、変な匂いだ。下半身が悲しいぞー寂しいぞーと訴えてくるかのよう。

男児用/女児用の枠を超えて

誰か、出来れば優しい男の子、側にいてください。私の身体を触ってください。でも誰も来ない。彼氏とイチャつくあの子の目は、私の知らない幸せが宿っているかのように、キラキラして見えた。本当に星や土星が入っている少女漫画の目みたい。自分が何をしたいの分からないのに、他人はみんな羨ましい。はあ、私も目に土星入れたい。私は過激な性描写が見たいあまり腐女子になり、男同士の絡みをオカズにした。

今でも自分の本当の欲望を正確には把握できていない。自分にとって居心地のいいことを優先できるようになって、ざっくりと掴めるようにはなったが。
振り返ると、思春期の私を混乱させたのは、男の子らしいこと/女の子らしいこと、この二つを、男児用/女児用のおもちゃに分ける風潮だったと思う。

本当は、おじさんがバービー人形で遊んでいいし、女の子が怪獣や宇宙や乗り物が好きでいい。可愛くなくても、全身脱毛してなくても、60歳80歳でも、かわいい服を着ていい、恋愛を楽しんでいい。
フェミニズム隆盛の今でも、女の子が女の子らしいものを好きで、小花柄のフレアスカートやキュートな雑貨にときめいていい。王子様を欲しがっていい。社会にも個人にもギャップやグラデーションが必要なのだ。

人に自分の基準を押し付ける態度が見苦しい。人には人のタイミングがあるのに、タイミングを測ることも許されない。まだ飛べない、が許されない。今飛びたい、が許されない。

色んなものを混ぜこぜにして、人間は出来ている。むしろ、〇〇らしさからはみ出す複雑な人間ほど深くて面白いのだと、この年齢になってやっと思うようになった。らしさの枠に収まることができず、自分のしたいことを優先せずにはいられない。私はそういう人が好きで、私自身もそうだからだ。はみ出さざるをえなかった人は、自分のままならさを知っている。自分が合わせられないものを分かっている。周囲を見下せとか、そういう人は特別だとか言っているのではない。人にはそれぞれの得意不得意がある。それを本人も周囲も大切にしてほしいのだ。その面白さを、周りに合わせることで潰さないでほしい。

上や世間や他人から押し付けられたものに合わせるのではなく、自分の中から湧き上がってくるものをじっくり感じ取る。それを信じる。でも自分らしさなんてものにも固執しない。外にあるものもいいなと思えば取り込んで、柔軟に変化できる自分。自分と違う他人を認められる自分。「多様性」を作る側の人間になれるよう、努力したい。

ペンネーム:みとこん

24歳 フリーター。会社を辞めて以来、働く意欲が減る一方。甘いものが好きすぎて、虫歯は増加する一方。Netflixのマインドハンターが最高です。