「される方も悪いんじゃない?」
セクハラやレイプ事件のニュースを見て、多くの人が何気なく吐き出す言葉だ。服が派手だったから。一緒にご飯に行ったから。同じ部屋に入ったから。被害者の気持ちも、何があったかもよく知らない人たちが好き放題なことを遠くから言って、何もかもわかったような気になっているんじゃないか。私がそんなやるせなさを覚えたのは、去年の暮れのことだった。

「セクハラにあうような女が悪い」私もそう思っていなかった?

去年の秋ごろ、私はあるプログラムの参加中に、男性に無理やり体を触られた。キスも迫られた。その人は私より立場が上で、歳も上で、もちろん力でもかなうわけがなくて、抵抗する術なんかほとんどなかった。正直、もっとひどいことをされていてもおかしくなかったと思う。
でも、彼の行為以上に私を酷く傷つけたのは、周囲の声だった。勇気を出して周りの大人に被害を訴えても、最初に言われたのは「隙があるから」「君にも問題がある」という言葉だった。本来であれば、信じていいはずの”頼れる大人“にも、わかってくれるはずだと思っていた”友人たち“にも、私の声は聴いてもらえなくて、悔しくて、怖くて、そんな自分が情けなくて、いつもいつも涙をこらえるのに必死だった。

同時に、私は自分のこれまでの言動を顧みることになった。これまで私も彼らと同じようなことを言っていたんじゃないか。「セクハラにあうような女が悪い」「そんなことでいちいち騒ぐなんてかっこ悪い」そんなことを心のどこかで当たり前のように思っていた過去の自分と向き合わなければならなくなった。

「あなたはかわいいから」という呪いの言葉

なんで過去の私はそんなことを思っていたんだろう。どこにいようが、誰といようが、何を着ていようが、無理に体を触られていい人間なんているはずがないのに。
理由はきっとたくさんある。その中で、私に一つ思い当たるところがあった。それは誰かに求められる<女の子>でいることこそが、女の正しい在り方という思い込みだ。

「あなたはかわいいから」

小さいころから、誰かにやさしくされるたびに呪いのようにかけられてきた言葉だ。荷物を持ってもらえるのも、先生が熱心に指導してくれるのも、困っていると必ず誰かが助けてくれるのも、全部「かわいいから」だった。そこでは、従順で、扱いやすくて、頼りない<かわいい>こそが、私の価値で、それをうまく利用して、周りから抜きんでることこそが賢い生き方だと教え込まれてきた。自分の意見を言うことや強い人に逆らうことなんてもってのほかだった。
親が友人がくれた〈かわいさ〉とは無関係の愛情すらも、すべてが「あなたはかわいいから」という言葉に吸い取られていく感じがした。

社会をよくするのは私たち一人ひとりの責任

いまも過去の私とおなじように思っている人はきっといるだろう。「社会が求める<女の子>でいなければならない」という檻の中で、声を上げられなくなってしまった人。声を上げても聞いてもらえない人。私はそんな人を一人でも救いたい。少なくともここに一人、あなたに寄り添う人がいる、一緒に声をあげる人がいる。そういうことを伝えていきたい。

同時に、無関心な周りの人の考え方を、社会のシステムを変えていきたい。そのために今、私がセクハラを受けたプログラムの運用を見直してもらおうと、意見書を提出し、交渉を重ねている。私の声が届かなかった友人たちに言葉を尽くして、何がつらかったのか、何に憤っているのかを伝えようとしている。周囲の理解があるとは言えない環境で、自分の思いを貫くのは大変だ。でも、私のために、未来の「女の子」のために、そして誰もが生きやすい場所をつくるために踏ん張っている。

社会をよくするのは私たち一人ひとりの責任だと信じている。5年後の世界を「女の子」が「女の子」でいることで損をしない社会に、引け目にも感じなくていい社会にしたい。そんな決意表明をもって、このエッセイを終わりとしたい。

ペンネーム:より

都内大学生。あるセクハラ被害にあったことをきっかけにジェンダー問題に関心を持つ。自分が好きな自分でいたい。

10月11日は国際ガールズ・デー

「女の子らしく」「女の子なんだから」……小さな頃から女性が受けてきたさまざまな社会的制約。ジェンダーに関わらず、生きやすい社会を実現していこうと、「かがみよかがみ」では、10月11日の国際ガールズ・デーにあわせ、「#5年後の女の子たちへ」をテーマとしたエッセイを募集しました。