かわいくなりたくなかった私は、あの赤いミニスカートが忘れられない

下北沢の古着屋で去年の夏に見つけた、お花の刺繍が入った赤いミニスカート。今でも忘れられない。「私が着られるわけないな」って、すぐに戻した。1週間後、あのミニスカートを思い出した。やっぱり「ときめいたし、ほしかった」と、わかった。
赤いミニスカート、強烈だ。かわいい度合いがとても高い。きっと私に似合わないし、合わせる服がないし、それに少し高かった。
でも何より私は、かわいく、なんてなりたくなかった。かわいいものが好きなのに、その思いに縛られていた。
小学生の時、多くのランドセルが、女の子は赤で男の子は黒だった。そんな中、一人だけ茶色のランドセルを持った短髪のあの子がかっこよくて惹かれていたのを覚えている。でもその一方で、私は私自身の赤いランドセルも長い髪も好きだった。
時々、この世界では、男の人、で、大人の人、じゃないと「人」ではなくなる。「女の子なんだから」と言われる度に、私は途端に「私」ではなくなって、「女の子」になった。嫌で嫌でしょうがなかった。
「女の子」はかわいい、らしい。TVでも雑誌でも全部、口をそろえてそう言う。その頃の私はもう「かわいいね」と言われても、「きれいだね」とか「かっこいいね」とは全然言われないことに気づいていた。
いつからだろう、自分の赤いランドセルが嫌いになってしまったのは。いつからだろう、ピンクもリボンもふわふわしたものも選べなくなったのは。
私はかわいいと呼ばれたくなくて、必死に小さく抵抗していた。私は「私」でいたかった。
ランドセルを卒業して、もうすぐ10年。
私はピンクのバッグもリボンのブラウスも持っている。
でもまだ、赤いミニスカートは買えなかったし、思い切って買った花柄のカラフルなワンピースは一度しか着ることができていない。そして、ふわふわのニットを着るときは、少し緊張する。
かわいいものは好きだけど、自分がかわいくなりたい、という気持ちとは、まだ葛藤がある。今だって「女の子だから」って扱われたくないし、妙にジロジロ見られたくない。「よくあんな格好できるよね」って訴えてくるあの人たちの皮肉が、心にこびりついている。
でも、私は知っている。ロリータ服を堂々と着ている人たちを。スカートを颯爽となびかせていた男性を。カラフルでセクシーな格好をしてフェスティバルを楽しんでいる人たちを。ミニスカートをかっこよく履いていたおばあちゃんを。
そんな彼らが私は好きだ。
服を選ぶとき、似合うかどうかやTPOも気にかけるけど、「本当に今の私がこの服にときめいているのかな」と考えるようにしている。それは「女の子」であることを要請してくる世界で、私が「私」でいるためのおまじないだ。まだまだ「私」を大切にするのは難しい。
今日、私はワンピースを選びました。それは「女の子だから」じゃなくて、「私だから」。
どうか、5年後の女の子たちが、心ときめくお洋服をためらわずに着られるようになりますように。どんな服を着ていても、女の子たちのセクシュアリティが尊重されますように。服選びを含めた女の子たちの自由が、この世界や彼女たち自身の劣等感から守られますように。女の子たち一人一人が自分自身を心の底から愛せますように。
だからまず、私がときめく服を着る。私が私や周りの人たちのセクシュアリティを尊重し、私でいる自由を守りぬく。そして、心の底から私を愛してみせる。まず一人の思いや考え、行動から変わると信じて。
あの日買えなかった赤いミニスカート、いつか出会えたら迷わず買おう。私はもうかわいくなることを恐れたくない。かわいいものを好きな自分も大事にしていく。そして、女の子である私も大切にしていく。私は「私」だから。
ペンネーム:ゆうきこと
喫茶店、ハーブティー、本、まじめな話が好きです。考えることを考えてます。
「女の子らしく」「女の子なんだから」……小さな頃から女性が受けてきたさまざまな社会的制約。ジェンダーに関わらず、生きやすい社会を実現していこうと、「かがみよかがみ」では、10月11日の国際ガールズ・デーにあわせ、「#5年後の女の子たちへ」をテーマとしたエッセイを募集しました。
かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。