――新著に収められた20編の昔話のなかで、コンプレックスをメインテーマにした話が一つあります。

はらだ有彩さん(以下、はらだ):「オコゼと山の神」ですね。

――女性である山の神が小川の水面に映る自分の顔を見て、その醜さに驚いて社に閉じこもってしまった。すると山は荒れ果て、田畑は干上がり、困った村人がオコゼ(トゲが生えた茶色い体で、押しつぶされたような顔をした魚)を供えた。それを見た山の神は「私より醜い顔があったんだな」と言って閉じこもるのをやめ、再び山や村に豊かな自然をもたらすようになった。というのが、あらすじです。でも、はらださんはこの結末が腑に落ちないそうですね?

はらだ:村人がオコゼを差し出したのは、「私、ブスなんで引きこもります」っていう山の神に対して、「もっとブスがいるから元気出して」と言っているようなもの。でも、もっと別の返し方があったんじゃないのって思うわけです。山の神には豊作をもたらす力がある。それって顔の造形でワーワー言ってるレベルじゃないような強大なパワーなのに、ふと本質から外れた「ブス」「美人」という評価軸に心が揺らいだときに、周りがその揺らぎを強化してしまう。その構造がだめな気がする。しかも村人に悪意がないから、たちが悪い。

はらださんが描いた山の神の挿絵

そのコンプレックスの出どころは本当に自分?

――山の神と同じように、自分の見た目に自信がもてなかったり、コンプレックスを抱いていたりする女の子は、今の日本にも大勢います。

はらだ:そのコンプレックスが本当はどこから来ているかが重要です。本来「もっとこうだったらいいのに」という気持ちは素晴らしい向上心だし、「こうなりたい」像が見つかっただけラッキーと言ってもいいくらいすごいことです。だから、本当ならすきなだけ悩めばいいんです。でも、そこに外から刺激が入ると話がややこしくなる。

自分を肯定できないのは、本当に自分が何か足りていないからなのか。なぜ自分の顔が気に入らないのか。掘り下げると、その自己評価の出どころは本当に自分なのか。もしも評価軸そのものが誰かの提示したものなら、本当に従わなければならないのか?

――そう言われれば、そうかも。私は太い脚がずっとコンプレックスだったんですけど、今思えば、小学校高学年のときに親戚のおばさんから「立派な大根脚だね」と(おそらく悪気なく)言われたのが強く意識するきっかけでした…。

はらだ:せっかく自分について考える機会を持つなら、そういう外部からの余計なノイズがない、静かな場所でいやというほど考えたいですよね。山の神だって、よく考えたら顔について悩んでる場合じゃなかった!もっと強い力を手に入れるために旅に出なきゃ!、と思うかもしれない。考え抜いた末に、自分の苦しみの原因が本当に顔の造形にあるなら、検討した上で顔を変えるのがベストアンサーという可能性もある。「整形したらだめ」という世間の声だって、やっぱり余計なノイズです。

私服もおしゃれなはらださん

はらだ:例えば私の手の指は、絵を描いているから曲がっています。もし指がきれいになるとしても、その代わりに絵を描いた時間が消えるなら、私は絵を描くことを選ぶ。もし山の神が、「やっぱり私の真髄は山の恵みをもたらすことだな」と心から思うなら、「ブス」などという概念そのものを「一時の気持ちの揺らぎだったな」と片付けられるかもしれない。「どう考えてもこの部分がこういう形になった方がイケてる」と思い立って顔の形を変えて、姿かたちが変わったことによってパワーが落ちたとしても、村人が口を出すことではない。自分の何に価値を置くか、それを決められるのは自分です。人間っていろんな要素の抱き合わせだから、何をどれくらい優先したいかということだと思います。

――はらださんもコンプレックスはありますか?

はらだ:コンプレックスって、何でしょうね。もしも「自分のこの部分がいやだな、次はこう変えてみよう」と思っている部分を「コンプレックス」と呼ぶなら、無限にあります。「ここが気に入らない」と思うことって悪いものではないと思っています。自分の美意識のかたちを探り当てるフックのようなものと捉えている。気に入らない部分があるということは「こうだったら気に入るのに」という理想像のようなものがあるはずで、「いいな」と思えるものが自分の中にあるのは、いいことだと思います。重ねて言いますが、外からの余計なノイズがなければ!笑。

この「余計な外部刺激」は年齢や性別によって様々です。たとえば私は、「若い女」っていう理由で与えられるノイズにびっくりしたことがあります。

美大生のころ、自分の描く絵のことだけを悩んでいられたのに、就職すると周囲から「若い女の子だから○○してね」とか「若い女の子はそんなこと考えずに○○してれば楽勝でしょ」という言葉を投げかけられることが増えました。自分と「自分の絵の良し悪し」の間に「若い女」という要素が割り込んできて、本来の悩みから無理やり目を背けさせられている感覚でした。30歳を超えると「若い女」という理由でいじられることが減るので、やっと自分のことで悩むことができるようになったかな。本来はコンプレックスって自分について思う存分考えるチャンスなのに、「若い女」を理由にそれを邪魔されるのはもったいないと思います。

キレてる人だけが怒っているわけじゃない

――今回の著書は、2018年5月に刊行した「日本のヤバい女の子」の続編。前作からはどんな変化がありますか?

はらだ:前作は「自分にできないことをしてくれてスカッとする」というのがコンセプト。殺したり、人間をやめたりするような、分かりやすくキレてる女の子たちの話を集めて、「怒ってもいいんだ」ということを意識しました。実際に、#me too運動の盛り上がりとか、怒ってもいい世の中になってきたのはとてもいいことだと思う。

「私はすぐキレるタイプ」というはらださん。先日は同僚の代わりに会社の会議でキレたそうです…

はらだ:一方で、怒るのが得意じゃない人もいますよね。それって、怒ってもいい世の中になったのに怒らないってことは、怒ってないんでしょって思われかねない。でも、直接怒りの言葉を発していないからって、怒っていないことにされるのはおかしい。だから、うまく怒れないタイプの人に向けて、こんなアクションの起こし方もあるよっていう視点で昔話を集めたのが今作です。閉じこもったり、笑顔を見せたり、石になったり。それでタイトルに「静かなる抵抗」を加えました。

石になる、という抗い方もある

――今作の中で、はらださんが特に思い入れのあるお話はありますか?

はらだ:「松浦佐用姫」ですね。恋人が新羅(朝鮮半島にあった国)に出征しなければならず、船が出て永遠に離ればなれになってしまう。松浦佐用姫は船を見送って悲しみに暮れ、そのまま石になったというストーリー。最初に読んだときは、ものすごく受け身だと思いました。でも、キレないと怒っていることにならないというのは押しつけ。消えずにそこに居続けるっていう抗い方もあるんですよね。

はらださんが描く松浦佐用姫

――このお話、本の中でのはらださんの言葉が印象的でした。「石は死なない。胸のうちを話してメロドラマを作ってなんかやらない。使い勝手の悪いキャラクターになって、そしてそれでも退場してやらない。私の大切な人を奪ったこの世界に、しこりとなって私はずっと存在し続けてやる」と。

はらだ:この話の舞台になった佐賀県唐津市の加部島の神社には、佐用姫の石が今も祀られています。まだめっちゃ怒ったままいるじゃん!ていう。

今知られている昔話は、人から人へ伝えられて残ったものです。伝え継がれていくなかで、あらすじのどこかが勝手に変えられているはずだし、実際の出来事や本人の気持ちからは、どこかがひずんでいるはず。だから、話の舞台になった土地に行ってみたり、主人公を友達に置き換えて考えてみたりします。すると通説とは違った見え方がしてくる。松浦佐用姫は、石になるのが彼女にできるなかでの最適解だったんだろうなと思います。

できること、できないこと、気に入っている部分、気に入らない部分って、外から見て勝手にジャッジされることがよくありますよね。だけど山の神も松浦佐用姫も、外から見たときと全く違うことを考えているかもしれない。山の神に年齢があるか分からないけど、二人の考えが「30代になった今ならこうするかも」という風に変わっていくなら、それも見てみたいです。

9月に出版した『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房)

はらだ有彩さんプロフィール

1985年生まれ、関西出身。テキスト(文章)もイラストもテキスタイルも手がける、テキストレーター。会社勤めをしながら、複数のウェブメディアでエッセイや小説を連載している。ファッションブランド「mon.you.moyo」主宰。2018年5月に『日本のヤバい女の子』(柏書房)を出版。ツイッター(@hurry1116)のフォロワー数は2.8万人。