これは女性が一人でラーメン屋に入れないとかそういう類いの話とは少し違っている。私は、一人でラーメン屋に入ることはできた。「一人でラーメン屋に入れない~」なんて言ったところで空腹も解決しないし何より私は料理しないでおいしいものが食べたかった。店ののれんをくぐるときに一人であることなんか、空腹や調理の面倒くささに比べたら小さなことなのだ。

でも、サイゼリヤでエスカルゴを頼む、それだけのことが、どうしても、どうしても、できなかった。サイゼリヤを知った高校生の頃から、友達につきあってもらってエスカルゴを注文した成人したてのあの日まで、私はエスカルゴを注文できなかった。

エスカルゴを注文できなかったなんて、馬鹿げていると思うだろうか。自分でも馬鹿げていると思う。ただ一言、「エスカルゴのオーブン焼きをお願いします」と言うだけ。そして食べてお金を払う。それだけなのに。それだけのことができなくて、頼めるメニューが減る。皆普通に食べられるのに。

エスカルゴ・コンプレックスとでも言うべきそれは、形を変え品を変え、今でも時々姿を見せる。克服したわけではないのだ。しつこいな、本当に。

それでは、エスカルゴ・コンプレックスの正体に迫っていこう。

エスカルゴはどんな味かまるでわからない

まず私は極端に苦いものと辛いものに弱い。ゴーヤもキムチもわさびもからしも食べられない。だから外食に行くと、辛くないか怪しいものは必ず辛くないか確認する。
その基準でいくと、エスカルゴは辛いか辛くないか以前にどんな味かわからないものだった。辛いのか苦いのかしょっぱいのか、それすらもわからない。

エスカルゴについての情報が少なすぎた。エスカルゴは甘いのか? 辛いのか? しょっぱいのか? いやそもそもどんな食感なのか? 何もわからなかった。高校生の辺りでアワビの食感が合わなくて大失敗した記憶があるから余計に慎重になった。要は味の想像のつかない食べ物を注文することに臆病になってしまうのだ。

苦くないか、辛くないか。そしてもし苦かったり辛かったりしたらどうしよう。
そんな思いでエスカルゴを頼めずにいた。

そして、私の頭を占めたのは、口に合わなくても代わりに食べてくれる誰かがいないということであった。
頼んだものは全部食べて皿を空にしなくてはいけないと思っていた。私にとって大切なことは食べきることではなく、友人と食事を楽しむことなのに。

口に合わなかったら食べてくれる誰かがいない、なんてことを気にしなくてもいい。口に合わなかったら残してもいいのだ。

エスカルゴ・コンプレックスを克服し、くさやも頼めるように

ラーメン屋で、カフェで、ファミレスで、どこでも時折エスカルゴ・コンプレックスが顔を出した。私はその度にお店の人に「これはどんな食べ物ですか?」と聞くようにしている。おいしいものを食べ逃してしまわないように。せっかくの機会なのだから。

「エスカルゴ食べたことないの?」という友人の一言から勢いで友人につきあってもらっておそるおそるだがエスカルゴをを食べ、エスカルゴ・コンプレックスを多少克服した私は、何とくさやを食べられるまでになったのだ。友人と一緒にくさやメインのバーに行き、味は想像つかないが匂いについてはたくさん情報を得ているくさやを頼む。
くさやは、想像通りくさく、焼いたらもっとくさかった。でもおいしい。おいしいのだ。くさいくさいと言いつつ箸が止まらない。気づけば開きを半分食べていた。

くさやの食レポをしている場合ではない。このくさやとの出会いはエスカルゴ・コンプレックスとの戦いなしには得られない出会いだった。エスカルゴ、ありがとう。くさやと出会わせてくれてありがとう。