「クラブに行きまくっている女」

これは、私が大学に入学した直後にクラスの男子生徒が使った言葉だ。それは私に向けられた訳ではなかったが、はっきりと侮蔑の込められたその言葉は、「クラブに行きまくっていた」私に深く刺さり、一瞬身がすくんだ。

彼の中で女の子が二分された

その時、私と彼は、恋愛について話していた。彼女が欲しいという彼に対し、出会いを求める場所としてポピュラーなインカレに入るのかと聞いたとき、「インカレにくる女なんていややん」という答えが返ってきた。適当に相槌を打ち、流していると、「でも人生何があるかわからんから、来年にはクラブに行きまくっている女を連れているかもしれん」と続けられた。

この時彼の頭の中では、女の子が二種類に分けられていたように私は思う。インカレに入るような、クラブに行きまくるような、チャラチャラしてる女。東大や、それに準ずる偏差値の高い大学に通う、自分と付き合うにふさわしい真面目な女。その境界線をまたがってしまっていた私は、ここに自分の居場所はないと直感的に感じた。

その日の午後、私がクラスを、そしてこの大学を嫌いになる決定的な出来事があった。大学の関係者からではないが、セクシャルハラスメントの被害を受けた時だ。60は過ぎているであろう男性から、いきなり「君色気あるね」と言われた。クラスの男子たち大勢の前で。

その時私はとっさに、「それ、セクハラですか?」と返した。その後もその男性とやり取りを続けていると、クラスの男の子が、ボソッと呟いた言葉が耳に入った。「生きづらい世の中だな」。それは私に向けて発されたものであり、自分が「取るに足らないことですぐに騒ぐ女」として認識され、それが一瞬でクラスに共有されていったのを感じた。普段はそれで何がダメなのだ!と騒いでいる私も、女子がほとんどいないクラスでそのような目線を一斉に向けられると、心が崩れていくのを感じた。この出来事だけが原因ではないが、この後私は大学に通えなくなっていった。

でも、こんな風に感じる女の子は多いのではないかと思う。私たちは日々、たくさんのラベルがベタベタ貼られる。あいつは誰にでも尻尾をふるビッチ。あいつは化粧をしないしガサツだからほぼ男だろ。あいつは俺らのお母さん的存在、聖母。この子天使じゃね?などなど。

でも、これはおかしい。真面目だって、ビッチだって、ガサツだって、優しかったって、可愛かったって、私たちのただの一面でしかない。私たちは、真面目な時だって遊ぶ時だってある。オタクな時だって、ビッチな時だってある。優しい時だって人を傷つけてしまう時だってある。勝手にラベルを貼られ、分類され、比べられるのはもう嫌だ。

自分で自分を評価することから始めよう

だから私は、5年後に大学に入学する女の子たちには私と同じような思いはしてほしくない。勝手に評価されて、次の日から大学に行けなくなってほしくない。私は自分の経験から、大学での人間関係しかわからないけど、これは大学にとどまる話ではない、と思う。この社会のどんな空間も、そうでなくてはいけない。

では、そのような社会にするために、私はこの5年間で何ができるのだろう。まずは、自分自身がやりたいことを見つけて、それを思いっきりやることだろう。異性からの目線や評価を気にしてしまう自分に別れを告げ、前を向く。色々言ってくる外野、男性にちゃんと中指を立て、私を勝手に評価することは無意味であることを伝える。

私は自分の興味のある政治学の研究をしていきたいと思っている。同時に、友達とクラブに行って思いっきり楽しんで、自分がセックスをしたい相手とセックスをしたい。男友達とは真面目な政治の議論も、最近して楽しかったセックスの話もする。そして、彼らがそのような私を消費することを許さない。これはとっても難しいし、辛いことだってたくさんあると思う。それでも私は5年後に、女の子たちが勝手にラベルを貼られて傷つくことのない文化を残したいのだ。

ペンネーム:ゆか

都内の大学生。食べている時が一番幸せ。適応障害。この社会に適応したいのか考える日々。
Twitter:@YukaOkamura1