社会人になって、はじめて私が押されたスタンプは「お嬢さま」だった。都心から離れた職場で、名前と「頑張ります!」程度の浅い自己紹介を終え、ぴかぴかの机に所在なく座る新入社員の私。動物園のパンダを見物するように先輩たちが入れ替わり立ち替わりやって来ては、質問を投げかけてくる。「出身は?」「どこの大学?」「高校は?」、生まれも育ちも東京で、小学校から私立の女子校にいて、大学院を出て……と身の上を答えたら、1人の先輩が「へー!お嬢さまじゃん」と私の額にポン、とお嬢さまスタンプを押したのである。

不可視の前置詞として「苦労知らずの≒恵まれた」という文言がついていることに勘付いて、ちょっぴり居心地の悪さを感じたけれど、笑ってごまかした。その後、虫を怖がれば「お嬢さまだな〜」と笑われた。私は虫取り小僧じゃないんだぞ!誰だって虫いやでしょ!と怒りたかったけれどついぞ言う機会はなかった。いつかの飲み会で、その人が遠方からーーそれこそ海を渡って上京し、就職したことを知った。

実を言うと自分のことをお嬢さまだと思ったことは、大人になるまでなかった。というのも、帰属していたコミュニティにおいて富裕層ではなかったからだ。

貴族のお菓子を知った日

小学1年の頃、友人を我が家に招待したところ、築40年の木造住宅であったので「汚いね」と無邪気な感想を貰った。幼い私は充分に傷つき、以降、友人を実家に招くことはやめた。
ちなみに、友人宅にお邪魔した時、家の床が大理石であることに衝撃を受けたばかりか、更にエンゼルパイなるお菓子に出会った。チョコレートでコーティングされた生地とマシュマロの絶妙なハーモニー!口に入れた瞬間(なるほど、これが、貴族の食べ物ってやつなんだな)と感心した私は、浅ましくも1つをポケットに忍ばせて帰宅し、まるで南蛮渡来の菓子を紹介する江戸人のようにエンゼルパイの素晴らしさを説いて親に購入を迫った。家のお菓子がおしゃぶり昆布からエンゼルパイにランクアップした記念すべき日である。

未だに、スーパーでエンゼルパイを見るとウキウキする。「贅沢、しちゃいますか~!」という気分になれば、ついカゴに放り込んでしまう。

大学に入っても、自分が「お嬢さま」であるという意識はなかった。ここでも我が家の財力は、同級生達からすると、並らしかった。家が2つあるわけでなし、留学させて貰えるような家計でなし。アルバイトをして自分の買いたいものは自分で買う。どうしてもまとまった額が必要な時は社会人になった姉からお金を借り、ちまちま返済していた。

大学院まで進んで「お嬢さま」に

広い社会に出て多くの人と出会い、私は「お嬢さま」と呼ばれるようになった。スタンプを押した先輩はもちろん、友人からも似たようなことを言われたことがある。ずっと東京で大学院まで行ってるんだ、すごいね。そう言った子は、田舎に残る兄弟のために親に頼まれて進学先の幅を狭めなければならなかった。それにひきかえ私は、何の制限もなく好きなものを学ぶために大学院にまで行き、都心部に住み……立地のいい場所で教育に潤沢な資金を投じてもらったことはゆるぎない事実である。
大学に行きたくても経済的に困難であった人。家を助けるために勉強の優先順位を下げなければならなかった人にとって、私は「恵まれたお嬢さま」なのだ。

実家がガラス障子で砂壁だったとか、天井には鼠がいて、寝る時にタタタッと走る音がしていたとか。そういう些細な悲劇は、経歴に載ることはない。だから、私の存在や経歴自体が他者のコンプレックスを刺激してしまうのは当然だと感じる。

実際、私も自分より「恵まれていそう」な人は羨ましい。そうしたお嬢さまスタンプを押したくなる人の気持ちがわかるから、反論や否定をしたくないのだ。エンゼルパイの出てきた家、留学に行く選択肢を持っていた同級生。上を見ればきりがなく、私にとって彼女たちは「恵まれたお嬢さま」である。

だが、自分がされて嫌なことは、してはいけません、これ即ち幼稚園で習う鉄則。故に「お嬢さま」と呼ばれながら、「お嬢さま」を羨む中途半端な身空の私はその言葉を使って他人をジャッジすまい、と決めている。

……ちょっと格好つけすぎた。だって、もう既に一段落前に羨ましいって書いてるしね、アハハ……。でも、心の中で思っても、面と向かって口に出しはしない。そこは、鼠の足音で眠れなかった夜とおしゃぶり昆布にかけて誓おう。

不幸合戦は不毛だから

だって、「お嬢さま」の人生が全て「恵まれて」いたかは分かり得ない。人には人の人生があり、苦悩がある。一面では恵まれていても、ある一面では苦悩していたかもしれないと想像さえしないのは、他人の言葉を奪い、生を尊重しないことだ。

ボロ屋に住んでいた「お嬢さま」だっているのである。
それでも、いやいや鼠なんてウチにもいたよ、アンタは恵まれているんだよ、と言いたくなる人もいるだろう。
私だって留学した子に「お金ない〜」といわれても内心(うっそだ〜)とあっかんべーするかもしれない。かもしれない、じゃない。間違いなくする。

ただ、もし仮に、私を「恵まれた人」や「お嬢さま」とジャッジする人にあらがい、同じ土俵に立って戦おうとしたら、次に私はより自分が「恵まれていなかった」エピソードを繰り出さなければならないはずだ。お嬢さまだけじゃなく、これはどんなことにも言える。たとえば「美人でモテそうだよね〜」といわれた子が、居心地悪そうに「そんなことないよ〜肌ボロボロだし」と自虐する場に居合わせたことはないか?皆、額に押されたスタンプを拭い去ろうとして、どんどん自分の粗探しをしているように私には見える。自虐に自虐を重ねて残るものはなんだろう。きっと不幸合戦は不毛で、お互いが傷ついていくだけだ。

コンプレックスの刃は個人に向けるべきものではない。
敢えて向けるのなら、社会に対してではないだろうか。

金銭的事情で、教育を諦めなければならない社会。都心部一極集中型の社会。あるいは容姿で人を判断する社会。そうした仕組みに否を唱えるために、私たちの苦悩と言葉は存在する。