わたしは可愛い。
長澤まさみや森星や冨永愛のような彫刻めいたアカデミックな美は確かにない。
満島ひかりや蒼井優のように侘び寂びのきいた雰囲気も纏っていない。
でも、わたしは可愛い、と思う。
いつまでそう思っていられるだろうか。
「ねえ、いつまで自分のこと名前で呼ぶの?」
友人からの痛恨のひとこと。
いつまでだっていいでしょ~!!と思いつつ、世間の意見はそうかもねと思わざるを得ない。
元号も変わって令和となったいま、お嬢さん、という年齢などとうに過ぎているわたし。
一般論など無視させるような、おばあちゃんになっても自分の名前が一人称で違和感を持たせないような女性になりたかったのになあ。
どうもそうはいかないらしい。
名前で呼ぶ方が可愛い。でも”相応でない”。
自分を名前で呼ぶだけで常識がないだなんて、おかしな話だよ。本音はそう。だって自分の名前に愛着があるし、ワタシ、より響きも可愛いし。そりゃ職場ではワタシって言ってるよ、心配されずとも。
でも、いつかは、一人称が自分の名前、というのをやめる時が来るのかもしれない。それは自分の可愛さをひとつ失う瞬間になる気がする。
クラスメイトの「今日もママ可愛かったね」
20年前になる。小学一年生の頃、母親は今のわたしと同じ年齢だった。27歳。
授業参観に来る母の圧倒的な可愛さ。美人だからなのか、必ず遅れて登場した。しかもまっすぐ教室に入らず、絶対に一度教壇側の引き戸の外からニコニコ笑顔で手を振ってくる。
わたしは嬉しかった。授業終わりの「今日もママ可愛かったね」クラスメイトから定番の一言。「なんで手振ってくるんだろうね」と返しつつも、若く可愛く明るい母はわたしの自慢だった。
今考えれば、母はとんでもなく可愛いわけではなかっただろう。今のわたしと当時の母なら、わたしの方が可愛いんじゃなかろうか。
でもわたしが自分自身を《可愛い》そう感じられるのは、他の誰でもないわたしこそが、母を可愛いとずっと思って見てきたからに違いない。母もまた、ママ美人だからね~と異常なナルシスト、いや自己肯定感が強い女性だった。それでも地域では2番目に可愛かった、と言うあたり微妙に客観視する力があるのがまた面白かった。
そんな母親に瓜二つの顔のわたしが、可愛くないわけがない。そう自分に言い聞かせてきた。
頭がよくなりたかったけど
ただ、ボ~っと生きてきたら気づいたら可愛かったです!と言うことでは絶対にない。今もSNSで美容・コスメ・整形・筋トレ・ストレッチのアカウントをぎらぎらチェクしている。いつから可愛くなりたい、可愛くいたい、と思い始めたのかは覚えていない。
でも、わたしは、可愛くなりたくて可愛さを求めているのではない。
悲しいことにわたしは頭が悪い。頭が良くなりたかった。小さい頃、近所の賢いお姉さんが憧れだった。
母は株で数十万スったり、砂糖瓶に小銭を貯金してこれが貯まったら離婚するんだ~と言うタイプの人間だったので、反抗心だったのかもしれない(ただ母は簿記2級を持っていて家業の青色申告を請け負っているのでギャグだったのかも)。
わたしが勉強ができたのは小学生までで、中学当時の成績は中の中。高校の勉強はとっとと退屈になってしまい早退を繰り返し、テスト順位は下から数えた方が早くなった。女子で追試を受けるのはわたしだけだった。3月のギリギリまで入試を受けてやっと入ったマンモス大学も夏休み以降全く行かなくなり、1年で退学した。
そんな人間が頭が良くなりたいだなんてどの口で言えるのだと思うかもしれないが、それでも頭が良くなりたかった。自分の頭の悪さを受け入れられるほどのパワーもなかった。
かつ最悪なことに、頭が良くなる努力もしなかった。というかバカなので、どうしたら頭が良くなるのかわからない。何を持って”頭が良い”のかも。
頭がよく見える努力へ舵を切って
仕方がないので、わたしは頭が良く見える努力の方に舵を切った。
一番大事なのは、可愛くいることだった。わたし可愛いでしょ?うふ、という雰囲気を出すこと。流行りの化粧をして巻き髪でワンピースを着ていると、ちょっと本を読んでいたりするだけで意外がられたりする。恐らく、流行りっぽい可愛い子は美容や化粧やファッションにばかり興味が行きがちだと思われているのだろう。ギャップって大事だ。いくらでも期待を裏切ってやるのでどうぞ好きなように見なしてくださいと、わたしはまつ毛を爆上げして、チークを丸く入れる。
わたしは、頭が良く思われたいがために、可愛くしているだけなのだ。
喋り方は元々舌足らずだしアホ声なのでちょっと難しい単語言えば頭良く見えるラッキー。知識はないからとりあえず情報を集める。政治、社会情勢、環境、テクノロジーはニュースサイトから。歴史や文化は映画や小説から。ファッションはSNSから。音楽はYouTubeとSpotify、友達から。
まあこんなものは全部ハッタリなのだけれど。ただ、情報をチラ見せすれば、あとは経験や知識ある人が色々教えてくれる。それでよかった。
可愛いは、私のノータリンを無効化してくれる魔法、だった。
でもだんだんと歳を重ねて、見聞が広がっているのが当たり前になっていく。モノを知らない前提は崩れていく。意外性は失われていく。
その時、わたしは、可愛いを抜きにして、どうやって”頭の良い女性”になればいいのだろうか。
このハッタリがいつまで通用させてもらえるのだろうか。