はじめに断っておく。
この文章には「東京で大変身!」「東京で大打撃!」というような物語性は一切無い。

東京。
私にとっての東京は、地元であり地元でなく、旅行先であり、そうでない。懐かしくもあり新鮮な、不思議なポジションの街だ。

私は地方出身で、大学進学を機に東京へと越してきた。これを言うと、何故か周りの人間達はニヤニヤとした蔑みのような笑みを浮かべながら「東京に憧れて上京してきたの?」と聞いてきた。確かに「生まれ育った田舎を捨てて都会を夢見て、いざ行かん!」というのはありがちなストーリー(むしろ主流)かもしれないが、私は違った。

東京の華やかさに対する憧れも、田舎への劣等感もなかった

特に東京へのこだわりは無く、身の丈にあった偏差値かつ学びたい学部があったという理由だけで、たまたま東京の大学に進学したまでだった。そして学校に通うため、たまたま東京に住んだまでだった。
だから余計に「上京物語」に仕立て上げようとしてくる周囲の人間が理解出来なかった。
また、私は幼少期から転勤族で引っ越しが多く、土地への執着というものがない。だからこそ、余計に彼らが理解不能だった。加えて、最新のファッションや化粧など、東京の華やかさに対する憧れも、出身が地方であることへの劣等感も、何も持ち合わせていなかった。

地方出身者は嫌ほど経験して来たであろう、「方言喋ってみてよ」。例に漏れず私もこのシャワーを浴びた。しかし生まれがそこまで方言のキツくない地方だったので、相手の要求する水準に毎度及ばず、何故かこちらがスベったみたいになってかなり不服だった。
そして不思議だったのが、そういうことを言ってきた人は、皆揃いも揃って東京以外の都道府県出身の人間だった。
私調べによると、東京生まれ東京育ちの人間はそんなこと言ってこなかった。方言を聞きたがること自体、自分が東京の人間であると思いたい東京コンプレックスなのかもしれないなと思った。(今思えば、何度も聞かれるうちに「またかよ!」と辟易し、相手に悪意があるのではと邪推していた可能性もある。)

比較的交通アクセスの良い場所にマンションを借りたため、新宿や池袋などの東京を代表する「都会」にも行きやすかった。おかげで4年間の間に「ダンジョン」と称される駅もスイスイと歩くことが出来るようになった。Googleマップに頼らずとも大方の場所はどの電車に乗っていつ何に乗り換えれば良いのか分かるようになった。

卒業するなりアッサリ東京を捨てた

そんな私は今、東京を離れ、また違う都市に在住している。
移住の際、「どうして行っちゃうの」と周りの人間に多く引き止められたが、私は目的のため卒業するなりアッサリ東京を捨てた。むしろ「どうして行っちゃいけないの」とすら思った。

東京というと派手なイメージが付き纏うが、私にとってはコンビニのおにぎりのようなものだ。
例えるなら、北海道が梅干し、東京が昆布、大阪がツナマヨ。「今日はどれにしようかしら」と売り場をウロウロし、「昆布の気分かも」とカゴに入れる。昆布のおにぎりを無心で食べた後、食べ終えたゴミを見ながら「あー美味しかった。そういや何食べたんだっけ?あぁ、昆布ね」

そして私は昆布を愛してはいない。憎んでもいない。ただ、うまいなぁと黙々と食べる。
愛の反対は無関心だとか偉い人は言ったが、まさにそんなかんじなのである。

いつの日だか、仲の良い先輩と飲んでいる時、「白川ちゃんは、相手が遠くに行っても会いに行きたい人、いる?友達とか恋人とか」と聞かれた。
私は「いませんね」と即答した。
薄情かもしれない。しかし、私はいつだって、今が、身の回りの生活が、1番大事で最高なのだ。

東京へは、たまの休みやイベントの際、フラリと遊びに行く。新幹線でひと眠りしている間にそこは東京だ。
プライベートで東京に行く際、私はほとんどいつも、学部生時代に行きつけだった喫茶に足を運ぶ。そして他にも行きつけだった場所に行きやすいよう、または会いたい人に会いやすいよう、立地を考えて宿をとる。

東京が私に与えてくれたものは、スムーズな改札の通り抜け

さて、4年間住んで東京が私に与えてくれたもの。それはスムーズな改札の通り抜けと、ある程度の地理感覚と、人間関係だった。

駅でオロオロしなくて済むのは大変有難く、これが「東京に住んだ」最大のメリットではなかろうか。逆に言えば、それ以上の在住経験のメリットは無に等しい。強いて言うなら、東京在住経験のある人と話が出来ること、「若いうちに一度は東京に住むべき」という誰が言ったか分からぬ言説を果たせたこと。あとは駅前のホームレスをたくさん見たこと。とにかく色んな人を見たこと。

人間関係。大学時代の友人達とは今でも繋がりがあるし、学校の外にもかけがえのない大切な人がいる。
行けつけの喫茶。時にはデートに、時には別れ話に、時にはカップとソーサーがガチャガチャ鳴るほどの大爆笑の舞台に、時には1人で読書、勉強のために通った喫茶。
これらは別に東京でなくても良かった。東京よりの埼玉や千葉に住んでいても、大切な人間関係は構築出来たはずだし、行きつけの喫茶も見つかったはずだ。

また、「東京はなんでもある」という幻想は「ど田舎に比べれば。そしてお金があれば」、という注釈が必要だろう。

今私が住んでいる都市は充分賑わっていて、人の多くない分東京よりもむしろ買い物がしやすいとさえ思う。学生時代よりも金銭的にも余裕が出来、手に入るものも多い。Amazonプライムと数多の通販を駆使する私は、もはや「手に入らないものなんてない」状態である。
最近はフリマアプリも充実しているし、買い物のためだけに東京に行くことはまずない。

私にとっての「東京」は、青春が詰まった、仮住まいの通過点

それでも、私は大好きな人達に会いに、ときたま東京を訪れる。たまたま彼、彼女らが東京近辺に住んでいるから。

私にとっての「東京」は、青春が詰まった、仮住まいの通過点。行くたびにホッとする、だけど少しずつ、どこかが変わっている、懐かしくも新鮮な街。

「お邪魔します」と「ただいま」が入り混じる、それが私にとっての「東京」だ。

書いていたら、久しぶりに昆布のおにぎりが食べたくなってきた。金曜の夜にでも、みどりの窓口へ行こう。