私は北関東出身である。都内まではだいたい電車で1時間半から2時間。アクセスはそんなに悪くない。東京に行く用事は、子どものころはディズニーランドや浅草、高校時代は大学のオープンキャンパスくらい。そんな、ほとんど東京とは縁のなかった私だが、大学進学を機に上京し、1人暮らしを始めた。大学院も含めると、6年の生活の多くを、都内とその近くで過ごした。

「べろをやけどしちゃったみたい」無自覚だった方言

大学に入学したばかりの5月ごろ、今でも鮮明に覚えていることがある。同じ学科の友人数名と仲良くなり、一緒に授業を受けるようになった。
その時は、眺めがよいキャンパスの高層階のラウンジで、お昼を食べていた。私は大学構内のコンビニで買った熱い揚げ物を食べ、舌をやけどしてしまったことに気付いた。
「あ、べろをやけどしちゃったみたい…」。そのとき私がつぶやくと、一緒に食べていた友人たちが笑いだした。「なにそれ(笑)べろの言い方がおもしろいね」。
はじめは、舌のことを「べろ」と言ったことが笑われたのかと思ったが、どうやら、「べろ」という単語のアクセントの問題だったらしい。
友人たちは、東京と埼玉の出身だった。

北関東のいくつかの県や地域では、方言の語尾が尻上がりになるという特徴があり、矯正するのが難しいと聞いたことがある。その時も、私は「べろ」という単語を発音する際、「ろ」にアクセントを置いていた。
私はそのことに無自覚だった。その日は大学から駅に向かう帰り道で、ずっとお昼のことが脳内を駆け巡っていた。

その出来事があった週末、友人たちと表参道のパンケーキを食べに行こう、ということになった。パンケーキ屋さんは若い女性たちでごった返しており、行列ができていた。並んでいる時も、「べろ」の一件について考えていることに気付く。気にしていないと自分に言い聞かせるように、ふざけて、友人の前でオーバーに方言を披露した。友人は「いいなあ、方言があって。それにかわいいと思うよ」と羨ましそうに笑った。笑ってもらえる、かわいいと言われるのは嬉しくて、だからそれからもたまに地元ネタっぽくやってみたりした。

「かわいい」と言われるのは嬉しいけど

でも、「いいなあ、かわいいし」と言われるのは嬉しくても、私は自分でも自覚しないまま、方言を話す自分を好ましく思ってなかったみたいだ。それからの大学生活では、私は微妙な語尾のアクセントを標準語に近づけようとする癖がついた。

ゼミで友人が発表しているとき、教授が講義をしているとき、山手線で人が話しているとき、とにかく学生時代、上記の出来事があってからは、ずっと標準語のイントネーションを注意深く聞くようになった。そして、自分がゼミで発表するときもまた、発表内容もさることながら、話し方が地元の方言っぽくならないよう、細心の注意を払っていたな、と今これを書いていて思い出す。
まるで、英語のリスニングのテストや、発音練習の教材を、一言一句聞き漏らさないようにするみたいに。

私にとって出身地の「訛り」というもの、そして無自覚だった訛りを指摘されたことは、それくらい「恥ずかしい」ものだったのだと思う。テレビに出る地元出身の芸人も、田舎くささを売りにしていたが、安心感を感じる一方、出身県を言うたびに、その芸人みたいなイメージを持たれるような気がしてハラハラしていた。

自分と東京の距離感

標準語を話せる自分、というのはつまり、東京に適応できている、と自分で思い込むことができる大きな要素だったかもしれない。必死さを隠そうとしながらも、私は東京に適応しようとしていた。適応できているかどうか常に確かめている時点で、それは東京とは違う場所の文化を体得してきたということを皮肉にも自覚させられてしまうのだけれど。

様々な人に溢れ、情報もお店も多く、刺激に満ち溢れた都内で学び、遊べることはとても楽しく、そういう自分の環境を幸運だと思っていた。
これも無自覚だったけれど、やっぱり東京に対する憧れは自分の中で深くあり、田舎者だと思われれるのは、自尊心が高い自分は耐えられなかったんだなあ、と思った。
表参道でパンケーキを食べる「女子大生」になった自分は、方言を話す自分を変えたいと思ったのだ。
東京と地元は、距離的にはそこまで遠くない。しかし、6年間で、圧倒的に文化の違いや、格差をあらゆる場面で感じた。ここでは全て上げられないが、その感覚のいちばん最初にあったのが、「べろ」の出来事だったように思う。

標準語と方言のあいだで

今、私は地元で会社員として働いている。多くの同僚や上司は地元出身なので、自然と職場では方言が飛び交う。いつもギャグを言ってくれる上司は、その話し方と方言も相まって、場を和ませてくれる。隣の先輩は、丁寧な口調の方言で、いつも電話対応をし、時に優しくアドバイスをくれる。

私はというと、方言が「ふつう」である環境にいるにも関わらず、やっぱりなぜか未だに、相手の話し方に注意深くなっている。そして自分の話し方を標準語のイントネーションに無意識に矯正する癖が抜けない。となりの先輩がどんなに方言を自然に話していても、電話口の相手の話し方がどんなに尻上がりでも、私は断固として標準語を話そうとしてしまう。

親しみやすく、安心感も覚える地元の方言だけど、私は、それを話す自分を許容していないし恥ずかしい。それは少し淋しく、自分が冷酷に思える。会社や地元の人に失礼かも、とも思う。
それはおそらく、私自身がこの会社やこの場所に長くいる未来を描けないことも関係している。でも、今の環境から飛び出すことへの不安も大きい。そんな現実的な迷いが、方言の問題となって立ち現れ続ける。
私は今日も人の方言を注意深く聞く。いまだに方言への安心感と、標準語を話したい気持ちの間でゆれ動いている。