たくさんの人に助けてもらって生きている。人間不信気味な私にとって、一定の距離を保ちながらも寄り添ってくれる友人たちには本当に頭が上がらない。彼らは側でニコニコしながら待っていて、私が手を出したときだけ、そっとやさしさをくれる。自分自身に使う分を含めて限りがあるはずのやさしさを、綿菓子のようにちぎって手渡してくれるたびに、乾ききった心の隙間から水が湧き出るような気持ちになる。

けれど中には、善意から助けてくれているはずなのに、どこか違和感のある接し方をしてくる人がいる。もっといえば、かえって何かを奪われるような感覚に陥ることがある。

”助けてくれている”のに、どうして嫌な感じがするのだろう。奪われる気がするのだろう。

長年感じてきた違和感をひも解いていった先で、私はひとつの鉱脈に突き刺さった。

断っても否定しても「君は弱い」と引かない”白馬の医師”

たとえば、5年ほど前のこと。心の調子を崩していたものの1軒目の病院で問診中に医師に「泣くな!」と怒鳴られて以来、精神科への不信感を募らせていた私は、数軒の病院を経て知人の紹介である心療内科にお世話になることになった。知人の紹介通り、その先生は私の話を熱心に聞いてくれ、「それは大変だったね。よく生きているね」とやさしく寄り添ってくれた。誰にも話せない悩みを抱えていた当時の私にとって、そう言ってもらえることはありがたかった。その安心感から私は堰を切ったように話したのを覚えている。

次回の予約を済ませた後、改めて礼を言うと「いや、これは僕のためでもあるんだ」と先生は言い、最近まで診ていたという患者の話をし始めた。すごく弱っていた女の子がいたこと、その子が元気になるように自身の生活を投げ出してケアしたこと、その子が元気になった今その子には会えなくなったこと。

守秘義務の観点からいって大丈夫なのかとも思ったけれど、それ以上に不安を覚えたのは最近まで診ていた彼女について語るとき、先生は明らかに寂しそうだったことだった。「僕は医者だから患者が良くなるのは本来喜ばしいことなんだけどね」とも言った。そのうえで、先生は私に「もしも深夜に発作が起きて、誰にも連絡できなかったら連絡してきていいよ」と言い、LINEで友達になる提案をしてきた。なんとなく嫌な予感がしたけれど、知人の紹介なので無下にするのも悪いような気がしたし、本当に誰も頼れないような状況だったのでお世話になることもあるかもしれないとも思った。自分から連絡しなければ連絡を取ることもないのだし、と、連絡先を交換して帰った。

私から先生に連絡することはなかったけれど、先生からは多いときで週に数回LINEが届いた。最初は「最近の体調はどうですか?何かあったら連絡してくださいね」というライトなもので、私はそれに対して「お心遣いありがとうございます。もしものときは頼らせていただくので、そのときはお願いします」と返していた。しかし、回を追うごとにLINEや診察時に話される内容はエスカレートし、「今は抑えられているかもしれないけどトラウマが勃発するかもしれないから、そのときはいつでも連絡して」「自分では大丈夫だと思っているかもしれないけど、知覚できていないだけの可能性もある」などと言うようになった。まるで、私に弱っていてほしいみたいだった。そして、最後にはきまって「僕が手をかけていたあの子もそうだったんだ」と付け加え、その子を失ってどれだけ寂しいかを説くのだった。

私はすっかり不安になってしまって「先生は専門家だからいろいろなものが見えているのかもしれませんが、自分で大丈夫と思えているうちは大丈夫だと思っているので。可能性の話や私のわからないことを言うのはやめてほしいです」と意を決して告げると「ごめんね。だけど、そうはいってもあなたは繊細な性格だから、困ったときは僕を頼ってほしい」の1点張りだった。私は体調が悪くなり、その病院に通うのを辞めてしまった。

ケア”したい”のではなく”されたい”のではないか

”助けてもらっている”はずなのに、体調がどんどん悪くなり、相手に対して嫌悪感を抱いてしまう自分にも嫌悪感を覚えてしまったこともあった。しかし、今になって考えれば、自分を責める必要はなかったと思う。

なぜなら、彼が私にしたことは「表面的には自分が相談に乗る側として立場を守りながら、相手を弱い存在として諭し、実情は自分が相談をしたり弱音を吐いたりしてこちらに負荷を強いていること」だ。弱者の烙印を押してパワーを奪っておきながら、善人の仮首をして体重をかけてくる弱さと狡猾さ、軽薄さが幾重にも罪。刑法でも民法でも裁けないけれど、私法によれば即処刑だ。

先の医師のエピソードは極端なうえ、守秘義務や公私混同、職権乱用等々、あらゆる問題がある。けれど、そうした特殊なケースを除いた、もっとライトな事柄は普段の生活やプライベートにも溢れている。

一歩踏み込んだケアを求めている人やそういうときもあるだろう。けれど、こちらが否定したり断ったりしているのに「あなたは弱い」「可哀想だ」「今は大丈夫だけど状況が悪くなる可能性もあるから心配だ」と”善意”を突っ込んでくる人たち。その勢いの背後にはエゴのようなものを感じざるを得ない。

実際、それはエゴなのだと思う。相手は私のことを考えてケアしようとしたのではない。恐らくは、自分がケアされたかったのではないか。

男性の傷ついていい権利、弱くなる権利

男女問わず「ケアされたい」と思う感情自体は悪くない。というよりも、何かや誰かによる寄る辺なくして一人でまるきり生きていける人などいないだろう。しかし「弱者としての立場を強要しながら、自分をケアしてほしい」という欲望を差し向けられた側は、二重の負担を強いられることになる

先のように実質的にはケアを強いてしまう人は男女問わずいると思うし、ジェンダーで切り分けて新たな分断や偏見を生みたくはないけれど、私の経験上、圧倒的に男性が多いように思う。そして、彼らについては「自分の弱さを認められない弱い男性」とも言えるが、「男性だから自分の弱さを認めにくい」とも表現できる。これもまた以前触れた「男らしさ」の呪いであり、当人を苦しめるだけでなく、周囲にも悪影響を及ぼしている事例の1つではないかと思うのだ。

1970年代末から男性性研究を始めた伊藤公雄氏は『男性学・男性性研究~個人的経験を通じて~』(現代思想2019年2月号・青土社)の中で、男性性を「優越・所有・権力」の3つと定義したうえで、男性性に関する葛藤についてこのように述べている。

近代的な男女の二項図式のなかで、男たちは自分の男性性という構図に縛られて、優越と所有と権力のゲームに追い立てられる。しかし、このゲームで勝者になるのはきわめて困難だ。男たちは、自己の男性性を確証しようとするためのゲームのなかで、完全に達成することができない男性性という不全感と不安定感を背負い込むことになる。(中略)しかし、しばしば女性相手になると、「女には負けられない」「女性をモノとしてコントロールできないと男ではない」「女性に自分の意思を押し付けられない男はだめだ」と、性差別・性暴力の背景を構成することになる。

『男性学・男性性研究~個人的経験を通じて~』(伊藤公雄/現代思想2019年2月号・青土社)

もちろん、すべての男性が女性蔑視的な視点を持っているとは全く思わないし、意図的に支配的な態度をとる人は少ない。けれど「女性に自分の意思を押し付けられない男はだめだ」というほど強い主張でなくとも「女性の前ではいつも毅然とした態度でいなければだめだ」と思っている男性は多いと思う。そうした”男性性ゲーム”の中で発生する無意識下での抑圧感とそこから脱したいエゴが、先のような矛盾を表出させるのではないだろうか。

また、自身が異性装者(トランスヴェスタイト)の男性であるグレイソン・ペリーは『男らしさの終焉』(フィルムアート社)の中で、難病になった男性のドキュメンタリー『死にゆくために、サイモンの選択』を例にとり、男性性がいかに男性を苦しめているかについて、次のように述べている。

男性なら自分の面倒は自分で見なくてはいけない――この信念は生死の問題になるほど男性の心に深く根ざしている。傷つきやすさは、死んだほうがマシだと思わせるほどひどいものにもなるようだ

『男らしさの終焉』(グレイソン・ペリー/フィルムアート社)

先のドキュメンタリーでは難病に罹り、話すことも歩くこともできなくなったサイモンが、男性性が失われることについての屈辱や、死んでしまいたい気持ちを何度も書き綴るという。こうした背景には「男性なら自分の面倒は自分で見なければいけない」と幼い頃から親に、社会にしつけられてきたことがあるのではないかと、著者は指摘する。無意識のうちに、しかししっかりと刻まれている”理想の男性像”が実際の自分にフィットしないだけでなく、そのことを語ることも許されない抑圧感の狭間で多くの男性は破裂寸前、あるいはあらぬ方向に暴発しているのかもしれない。

私は先の”低きに流れる”二重の負担を断固として拒否する。過去に私を貶め、負担を強いてきた人間を断固として許さないし、自分にとって大事でもなんでもない人間の捻じれたケアの欲望を受け入れない。困っている人はできるだけ助けたいという気持ちはあるが、貶められる所以はないし、私は聖母でもゴミ箱でもない。弱さや”善意”発の立ち居振る舞いとて暴力であることには変わりない。ただ、世の中全体として抑圧感を抱えて暴発してしまう人は減らしたいし、苦しみの根源を経ちたい。ケアを求めている人が性差に関係なくケアを受けられる社会にはなってほしい。暴発を受けて苦しむ人の数を減らすためにも、だ。

”男らしさ”はオプション、あってもなくてもいい

男性性から解放されるべきという話ばかりしてきたけれど、男性性のすべてを否定しているわけではない。たとえば「”男らしい”素振りにグッとくる」といった感覚は否定されるものではないと思うし、それらを「時代遅れ」などと揶揄する風潮は気詰まりだ。先のグレイソン・ペリーの言葉を借りれば、”男らしさ”とはオプションで、簡単に身につけられる人もいれば、そうでない人もいる。問題は、バリエーションの少なさにあると、私は思う。

たとえば、先の「優越・所有・権力」といった男性性に対して、”新しい男性像”や”良い男性像”と賞賛されるのは「家事や育児に積極的に参画する男性」ほぼ一択だ。もちろんロールモデルの1つにはなると思うけれど、既存の男性性同様に、すべての男性をその器1つに投じることはできない。既存の男らしさにとらわれず自由に生きて幸せそうなロールモデルの種類が少なすぎる。たとえ、それがどんなに弱者の我慢の上に成り立っていたものだったとしても、進むべき方向性もわからぬままに持っていたものを”剥奪”されれば、不安感から反発する人がいるのも理解はできる。

では、どのようにバリエーションを増やしていけば良いのだろう。私が思うに、重要なのはロールモデルではなく、ロールモデルを導き出す過程だ。いくらバリエーションが増えても、ロールモデルがある以上、”フィットできない”抑圧感は拭えない。本当に自由であって良いのならば、今ある抑圧――常に男性性を参照して自他ともにジャッジする視線――を拭えば、あとは個々が自分にあったかたちを見つけていけるはずだ。ただ、これはある程度の人が足並みを揃えないと、変わっていかない。”男性性ゲーム”の”Loser”を生まないよう、仕組みや居場所づくりなどのハード面から整えていく必要があるのかもしれない。

いずれにしても、パワーに代わる男らしさにどんなかたちがあるのか、言葉にできる人はほとんどいないように思う。もはやデフォルトで社会や身体に埋め込まれた”男らしさ”から解放された男性たちの行く先を、私も一緒に考えたい。

illustration :Ikeda Akuri