「かわいい」は正義。

それは理解できます。私も、かわいいモデルさんや女優さんが載っている雑誌は即買いだし、すすめているコスメやスキンケアもつい買っちゃう。だって、かわいいんだもん。

そんな「かわいい」が評価されて、価値を与えられることってありますよね。

私、あれ大っ嫌いでした。

高校1年生の春、ランク付けに衝撃

高校1年生の春。初めてのクラス。初めて出会うクラスメイト。
正直にいうと、私は中学校にあまりいい思い出がないので、クラスの子と仲良くなれるか不安でした。でも、高校は優しい子たちばかり。絶賛人見知り中だった私も、徐々に慣れてきました。

ある日のことです。

休み時間になり、いつもは昨日観た野球の話で盛り上がる男子たちが、後ろの黒板の前で何やらコソコソ話をしていました。時折、クスクス笑ったり、誰かを指差して「おいやめろって」と言いながら(顔は嬉しそう)カツカツと何かを書き始めました。

私は(何か嫌な感じだな~…)と思いながら、特に気にしていませんでした…、というのは嘘で、めちゃくちゃ気になって友達の隙間からチラチラ様子を眺めていました。

すると、そこに書かれていたのは1から27までの数字と点数、そしてクラスの女の子の名前。

「えっ」
一体何が行われているのかを理解するのに、そう時間はかかりませんでした。

男の子たちは、クラスの女の子に点数と順位をつけていたのです。しかも、ご丁寧に最下位まで。

「あいつは、80点くらいかな~~?」「いやでも、鼻が高すぎるから70点じゃね?」

私は自分の順位を見るのが怖くなって、それ以上眺めるのをやめました。

「はあ?????あなたは誰なんですか????」
と言ってやりたいところですが、当時は男性に「容姿に価値を付けられる」ことに嫌悪は感じていたものの「おかしい!」とはっきり物申せる度胸がありませんでした。

誰が1番だったのかすら、もう覚えていませんがこの出来事は未だに頭にこびりついているので、よほど私の中で衝撃的だったのだと思います。

これが、初めての私と「通り魔ミスコン(相手が望んでいないのに、容姿を基準に価値付けすること)」との出会いでした。

通り魔ミスコンの被害者はだれ?

大人になった今、あからさまに容姿に順番を付けられることはなくなりました。

ですが、太っていることを理由に「お前は、産業廃棄物」と冗談という体でストレスの吐口に使われたことや、可愛い子と2人で並べられた時に自分は「可愛い要員」ではないのだなと思ったことはあります。

誰しも悪気があるわけではありませんが、「自分は周りが求める可愛いに達していないのだ」という現実を突きつけられると、ゆっくり剥がしたカサブタを空気に晒した時のように、少しずつヒリヒリと痛くなりました。

だから、「もう傷つくのは嫌だ、可愛くなりたい。」と、すごい勢いでダイエットをしたり、メイクや服装を研究して似合うものを片っ端から探したり、かわいいと評価される人の顔を穴が開くほど見て、この顔に近付くにはどうしたらいいかなどと考えていました。

そんな中、あることに気が付きました。

それは、大学時代の先輩に「自分の努力が認めてもらえるとは限らない」と言われた時のことです。

この人も「通り魔ミスコン」の主催者。私が容姿を批評されたことにカチンときて、これまでどれ程努力してきたかを話した直後に先輩が「でもさ...」と悔しそうに言いました。

そう言われて私は、「はあ~~~?マジで何様?!?」と、先輩を責めていたのですが...。

ふと、振り返ると
「私は、なんでこんなに怒っているんだろう?」
と疑問が沸きました。

すると、

「誰かが定めた基準に自分を合わせようとしていたのではないか」

という考えがぽつりと浮かびました。

自分が努力して基準に達したと、認めてもらえないことに怒っていたんです。
そしていつの間にか、容姿を一定の基準で価値付けすることが「自分の当たり前」になっていました。

可愛い女の子の写真と自分を比べて泣いてしまったこと。

インスタを見てこの子より、こっちの子の方が可愛いなと思ってしまったこと。

誰かのことをかっこよくないと言ってしまったこと。

過去を思い出すにつれ、高1の時のクラスの男子と同じことをしている自分に気が付きました。
それは、きっと異性を意識するようになってから無意識でしていたことです。けれど、「傷つくのは嫌だ!」と思ってからは、特に自分の心に強く現れていました。

「自分の努力が認めてもらえるとは限らない。」

そう言った先輩も、世の中(もしくは自分)が合格とする基準を満たすことができないと感じていたのかもしれません。

自分が決めた軸(今回は容姿)に従って一定の基準に当てはめ、誰かを価値付けしているとき、自分のことも同じように扱っているのだと思います。

その軸は、容姿だけでなくお金、学歴、仕事、異性にモテること、男であること、女であることなど色々ありますが、共通するのは目に見えやすいことです。1つ(もしくは、複数)の軸で自己判断し、「自分はこの人を評価できる上の立場にいる存在だ」と思った時、審査員になるんです。

とにかく、弱い部分も含めた「個人」としての自分とは向き合えていないのだ、ということです。

通り魔ミスコンの被害者は、評価される側でありミスコンの主催者でもあるのだと気がついた瞬間でした。

自分のことを愛してあげよう

「美人」に価値を与える「通り魔ミスコン」の主催者たちも、自分と同じように「ミスターコン・ミスコン〇〇部門」の参加者なのだろうと気づいた時、彼ら・彼女らにとっての「可愛いで賞」をもらえなくても別にいいなと思えました。

ただ容姿に自分が望まない評価を与えられた時、人が傷付くのは、評価そのものだけではありません。
評価を与えた人が、その瞬間に自分のことを「個人」として大切にしてないと分かるからでもあります。

未だ文章に書くほどルッキズム(外見至上主義)に囚われているのは、無意識に放たれた「あなたのことを大切にしていません」という意味を含んだ言葉の傷が癒えないから。

そして、これまでの経験が作った「女の子は可愛くなければ」という呪いに囚われてしまう時があるからです。

その価値観から、いつか解放してあげたい。
けれども、きっとすぐには出来ません。

それまでは、囚われていることを自覚しつつ「自分を気に入っているな」と思える時を増やせるように、何度も向き合っていきたい。コンプレックスを許してあげたい。自分のことを目一杯愛してあげよう。そう思っています。

そして昔と変わらず、メイクをしたり、髪を整えたり、スキンケアしたり、オシャレをしたりしているけれど、今は、自分が自分を気に入っているなと思うため。私主催の「個人」という部門でのミスコン審査員は、私だけです。

だから今後、私のミスコンの審査員は全枠埋まっているので。もちろん容姿もね。

審査員だった人たちも思う存分、自分とだけ向き合ってくださいね。