「女装」しながら生きてきた。女だけど。

小さい頃からスカートが嫌いだった。ピンク色も嫌。髪も短くないと嫌。いわゆる女の子女の子したものはだいたい苦手だった。
小学生としての6年間でスカートを履いたのは、入学式と会ったこともない親戚の法事だけだった。卒業式のブレザーは、母親に無理を言ってズボンにした。
スカートに何か恨みがあるわけではなかったけれど、スカートを履くと自分が自分でなくなってしまうような気がした。スカートを履かないことは、わたしのアイデンティティの一部になっていた。

「これは女装だ!」と割り切ってスカートを履く

中学から制服になった。ちょっとダサくて何の変哲もないセーラー服。女子はもちろんスカート。着たくなかったけれど、制服だから着ないわけにもいかない。
そこで考えたのが、「これは女装だ!」と割り切ってスカートを履くことだった。「女装」なんだから本当のわたしである必要はない。いわばコスプレ。女子らしいものを身にまとい、女子としての生活を追体験する。いや女子だけれども。

この「女装だと割り切り戦法」には高校、大学、そして社会人になってもお世話になっている。
たとえば、就活。日本の就活では、スカートのリクルートスーツに化粧にパンプスといったような、女性性の権化のような格好をしなければならない。いや、しなければならないというわけでは決してないのだけれど、この型から外れると少なからず浮く。自分らしい格好をしてまわりから浮くこと、目立つ真似はせずに適当にうまいことやること。このふたつを天秤にかけながら、あるときはパンツスーツすっぴんフラットシューズ、あるときはスカートスーツ化粧パンプスで面接に出かけた。

女性らしさを求める社会に、真っ向から反抗する気力も勇気も持っていない

一度だけ、わたしの思う女子就活生の型にはまらない格好の女子とグループディスカッションをした。少し話しただけで頭の回転が速いとわかる、快活な女子大学生だった。
彼女は髪を潔いベリーショートに切り込んで、明るいグレーのパンツスーツを着ていた。「髪はショートよりまとめ髪のほうが無難」という誰が言ったのかどこで読んだのかもわからないアドバイスを真に受けて、無理をして髪を伸ばした自分の弱さのようなものを見せつけられたようで、心がシクシク痛んだ。

女性らしさを求められる社会への怒りや苛立ちや不満を募らせながら、わたしはそれに真っ向から反抗する気力も勇気も持っていない。ベリーショートの彼女のように、スカートやロングヘアを要求する風潮を軽やかに踏みつけることができない。

好きな格好をしたいならすればいいのは分かっている。でもあなたたち、「パンツスーツの女子就活生はめんどくさそう」「すっぴんとか女捨ててる」とか平気で言うじゃないですか。そういう人がこの世の中にはゴロゴロいるわけじゃないですか。わたしはそういう雨風にいちいち晒されたくない。だからわたしは女らしい格好をすることで、その類の雨風から身を守ってきたのだ。

これまでの人生で出会ったモノを集めて、呪いを解いていくことはできる

他の女の子が軽やかにやってのける女の子的生活がわたしにはできない。それが長らくわたしのコンプレックスだった。
とはいえ、歳を重ねるにつれこのコンプレックスも消えていくのかもしれないという手応えはある。わたしはいま「女装」をしているのだからと思い込むことは、数年前に比べて格段に減った。

コンプレックスがゆるやかに薄められていくのは、色々な理由があってのことだ。人の格好に口出しする社会がクソなので、あなたは堂々と好きな格好をしていればよろしいと教えてくれたジェンダー論の講義、「ドイツではスカートのほうがマイナー。だってズボンのほうが機能的だから。すっぴんに関しては、すっぴんが当たり前だから『すっぴん』に相当するドイツ語はない」と教えてくれたドイツ人留学生、「女子力」とやらが低いどころか地を這うわたしを恋愛対象として好きになってくれた人々、コンプレックスを解消すべく読み漁ったフェミニズム文学やフェミニストの本の数々など。

残念ながらコンプレックスの呪いがある日突然解けることはないと思う。ただ、これまでの人生で出会った人やモノや言葉を集めて呪いを解いていくことはできるんじゃないだろうかとも思う。

「女装」しなくてもよくなる日を、待ち望んでいる

今日もわたしはパンツを履くし化粧をしない。とはいえ、まったくのすっぴんはまだ気が引けるので、はっきりとした色の口紅を下唇に乗せてそれを上唇にもこすりつける。これが女装の部分。なけなしの女性性。

通勤電車で乗り合わせる女性たちはみんなきれいだ。ナチュラルメイクに清潔感のあるヘアスタイルにフェミニンなコンサバオフィスカジュアル。
でもわたしはあちら側にはたぶん行けない。無理に行かなくてもいい。
「女装」をしなくてもよくなる日がくるのを望みながら、通勤電車に揺られてこの文章を書いている。