高1の冬、好きな俳優の舞台を観に行くために、初めて一人で高速バスに乗った。
東京に行くのは、小学校の修学旅行以来のことだった。

新宿でバスを降りて、目に入るビルと人の多さに困惑した。

駅に入ったら、まずは路線図とにらめっこが始まる。
自分が乗るべき路線を探し当てた後に待っているのは、難解な迷路だ。
途中で来た道を引き返したりしながら、やっとの思いでホームに着いて電車に乗った。

最寄り駅で降りてから劇場までは5分程のはずなのに、20分、30分と歩いていても、それらしき建物は一向に見当たらない。

迫りくる時間、パニックになる私。
ガラケーの小さな画面を見ながら泣きそうになっていると、後ろから一人の女性に声を掛けられた。
聞けば、偶然にも同じ舞台を観にきて、同じように道に迷っていたらしい。
「このまま歩いていてもらちが明かないので、タクシーを呼びましょう」ということになり、相乗りをして、無事に目的地にたどり着くことができた。

どうやら、私たちは駅から全く反対の方向に歩いてしまっていたようだった。
冷静でなくなっていた私は、タクシーを呼ぶという考えがすっかり頭から抜けてしまっていた。
もしも彼女と出会っていなければ、開演には間に合わなかっただろう。

その時の体験は、トラウマとして脳内に強くこびりついた。

私はあんなにギラギラしたところには馴染めない、と思っていた

それからも、見たい催しがあるとたびたび東京へ行った。
目的地までの道のりはしつこいほど念入りに調べたが、方向音痴の私はそれでもやはり何度も迷い、そのたびにトラウマは増えていった。

東京では、私が不安な顔をしていても誰も気にも留めてくれない。
みんな早歩きで、何かに急いでいて、気軽に道を聞くこともできない。
そんな東京が怖かった。

友達に東京土産を渡せば、必ず「いいな~」と羨ましがられた。
東京って、そんなにいい所だろうか。用事があるから行くけど、私はあんなにギラギラしたところには馴染めない。――そう思っていた。

地元の人はフレンドリーで、でもそれが息苦しく感じてしまう

高校を卒業すると、東京に行くペースは次第に増えていった。

私はいつのまにか、スムーズに電車に乗れるようになっていた。
人混みにもいちいちびっくりしなくなった。
道に迷う回数も減ったし、たまに迷っても前みたいにパニックになったりはしない。

私は、東京のことを知らなすぎたのだ。
人見知りをするように、「場所見知り」をしていただけだった。
相性が合わない、好きになれないと決めつけていたのは私だった。

生まれてからずっと住んできた地元は、私にとって馴染み深く、落ち着く場所だ。
地域の人たちはとてもフレンドリーで、私のことをいつも気にしてくれる。
しかし、それが時に、どうしようもなく息苦しく感じてしまう。

学生の時は不登校で、社会人になってからもつまずいてばかり、よそさまに顔向けできない親戚の恥だった私は、いつも劣等感を感じていた。外に出るのが怖かった。

だけど、そんな私のことを東京では誰も気にしちゃいない。
好きな服を着ていたってジロジロ見られないし、クスクス笑われたりしない。
それが嬉しくて、いつのまにか東京は私にとって居心地のいい場所になっていた。

東京の街は「君みたいなのが居てもいいよ」と言ってくれているみたい

よく、「東京の人は冷たい」と言う人がいる。
東京の人が冷たく見えるのは、基本的にみんな「自分」を生きているからだと思う。

色んな場所から、色んな装いの、色んな考え方をもった人たちが集まっているから、わざわざ他人を自分の物差しで測ろうとはしないのだろう。

東京の人混みに紛れていれば、私なんて所詮、この広い地球の日本に住む1億2千万人の中の一人に過ぎないのだと実感する。私の悩みは、なんて小さいのだろうか。
それと同時に、自分は代えのきかない唯一無二の存在でもある。だったら、他人の目なんて気にしているより、もっと開放的に生きてみた方が楽しいのではないだろうか。

混沌とした東京の街は「君みたいなのが居てもいいよ」と言ってくれているようで、その”無関心のやさしさ”に、私は何度も救われた。

かつて心細さを感じたその街は、今では私がいちばん自然体でいられる、大切な場所だ。