自分らしさ、アイデンティティ、オリジナリティ。

東京は「個性」という輝かしいステータスで溢れかえっている。
そんな多様性の中で私は“ありのままの自分”を探すことに疲れてしまいました。

誇れる個性がない

18歳、高校卒業と同時に上京した私はもれなく「自分」を探してさまよっていました。お金や権力や地位はいらない、ただ誰かに影響を与える人生を歩みたい。小さな野心を胸に、自分の存在価値を見つけようと必死でした。

しかし、そこは日本経済の中心地、東京。競争の母数が桁違いです。見上げれば劣等感、見下ろせば慢心を感じ、あっという間に私は自分らしさを見失います。それまで私を私たらしめていたものも、莫大な数の個性を前に淘汰され。何の個性もない私に何ができるのだろうか。私よりも知識のある人、上手くやれる人、特殊な経験をした人はたくさんいるのに。そんな不安を抱かずにはいられませんでした。家族や友人に「私って何?」なんて、到底聞けるはずも無く。何ともないような顔をしてしまう。カウンセリングを受けるような話でもないし。と一人で悶々とする日々でした。

キラキラした魅力的なもので溢れる東京で、他人と自分を比べ、自己嫌悪せずにはいられなかったのです。「特別な魅力がなくともここに存在していい」「世間の目なんて気にしなくてもいい」と自己肯定感の高い人は言います。しかし、これを頭で理解していても気持ちが変わってくれない。結局、私はその言葉を心で実感するまで無個性コンプレックスから抜け出すことができませんでした。

結局、"個性的"な個性のみが重宝される

上京して以来、多様性と寛容の正義のもと「〇〇でもいい」と言ったフレーズに遭遇する機会が増えました。声を上げることで根拠のない縛りが解かれていく、ありのままの姿を肯定する価値観が主流となってきたのは素晴らしいことだと思います。しかし、激しい“個性競争”の真っ只中にいた私の心にとっては、この声すらもプレッシャーでした。

本来評価することのできない個性を商品として扱い、魅力的なパッケージで包み、ステータス化するのがメディアだと私は感じます。それらはこれまで無視されてきた個性を、伝統を打ち破る革新的でクリエイティブな「個性(ステータス)」として再構築したに過ぎません。しかし、奇抜で独特な個性ばかりが話題に上る様子を見て私は、

「結局、"個性的"な個性のみが評価される」

メディアを通して出会った他者の非凡な個性を基準に自分をジャッジし、抜きん出た個性を持たない自分に自信を失くしていました。こうして築き上げた理想としての「自分らしさ観」は、ありのままの凡庸な自分を肯定してはくれなかったのです。

そこにある自分らしさを無条件に抱きしめる

東京の情報網、消費文化、資本主義経済の中で、自分を肯定するために始めたはずの個性探しは、むしろ自己肯定感をどんどん下げていきました。
視野を広げれば広げるほど、より強力な個性に出会い傷口に塩。

考え続けた末に見つけた自分らしさは、取り立てて誇る程でもない平凡な日常で。
そういうありきたりではっきりしない個性を拒絶していただけなのだと気付きました。

それは無意識のうちに競争と化していたのです。

自分らしさとは意識して作るものではなく、そこにあるもので。
自己肯定とは自分らしさを誇ることではなく、無条件に抱きしめることで。
「個性」が愛される価値のあるものかどうか、善か悪かなんて関係ないのだと私は思います。

個性と価値は別物です。
個性で自分を品定めしなくていいんだと私は思います。
あなたの尊さを測るには「個性」はあまりにも小さいから。