他人の前で泣いたら負けだといつからか思うようになった。
涙を見せることは弱さをみせること。
私は他人に自分の弱みを見せたくなくて、見せられなくて、他人の前で泣くことをやめた。
私はいつから他人の前で泣けなくなったんだろう。

自分の好きに生きることを選んだのだから、強くならなきゃいけない

忘れられないのは、高校3年生の時のこと。
とあるプログラムに参加した時に年上の男の人が話していて、エモーショナルになり泣き出した。それを見た私はドン引きした記憶がある。その時、私は感情をもろに出す彼に嫌悪を感じた。
でも今考えると多分あれは嫌悪感じゃなかった。私はうらやましかったんだと思う。自分の感情を正直に吐き出す彼が。でもそう思いたくなくて、「嫌悪」っていう言葉で片付けた気がする。

アメリカで過ごした大学時代、泣きたくなることが何度もあった。
「日本人だから」という理由で友達に突き放されたとき。
日本に住む家族からおじいちゃんが死んだと連絡が来たけれど葬式に駆けつけられなかったとき。
英語で行われる授業についていけなくて悔しかったとき。
泣きたくなったら、私はシャワー室に駆け込みシャワーを浴びながら毎回泣いた。寮で暮らしていた私にとって一人になれる場所はそこぐらいしかなかったから。

自ら行きたいといって選んだ海外大学への進学。
周りからは「いいね、うらやましい」とか「すごいね」とたくさん言われた。「Karenは雲の上の存在になってしまった」とまで言われたこともある。海外進学という選択は私を「自分のやりたいことをやっている人・自由奔放な人・海外に一人でも行ける強い人」だと周囲に認識させたようだった。
それが余計に、自分の好きに生きることを選んだのだから強くならないと、と私に意識させたのだ。

私は強いのではなく、プライドが邪魔して他人の前で泣けない弱い人間

この人の前なら泣ける!という人がいない私は孤独だな、と思うことがある。でもそう思ったとき、いつも自分に言い聞かせるようにしている。自由に生きることは孤独と向き合うこととセットなのだということを。そうじゃなきゃやってられない。

みんなは私を強い人というけれど、むしろ自分のプライドが邪魔して他人の前で泣けない弱い人間だ。泣くことで「女だから」と言われるのも嫌だし、涙という特権を使ったと思われるのも嫌なのだ。

実は3年間のアメリカ生活の中で、一度だけ、耐えられなくて一人の友達の前で泣いたことがある。今振り返るとそれだけ自分は追い詰められていたんだなと思う。
でもそれ以来、家族以外の人の前では泣けていない。
周りからはいつも冷静で、一人でも大丈夫な強い人間だと思われがちだけど、それはみんなが私の泣いている姿を見てないからだと思う。

泣いている人を見ると「自分の気持ちに正直でうらやましいな」と思う

人の前で泣けたらどれだけ楽だろうと思うことがある。誰かに気持ちを共有できて、誰かが横で励ましてくれたらどれだけ気持ちが楽になるだろうって。だって辛いことや悲しいことは誰かと分け合ったら半分になるっていうから。

じゃ泣いてみればいいじゃん!と思うかもしれないけど今の私にはまだ無理だ。
泣きだした人をみると「先越された!」なんて思っちゃう。
どんなに泣きたくても強がって「私は泣かないキャラです」を貫いてしまう。

でも私は少し成長した。泣いている人を見ると「自分の気持ちに正直でうらやましいな」と思うようになった。私にとってはハードルの高い、他人の前で泣くということを軽々とやってしまう人たちをすごいと思えるようになった。「泣くなんてずるい!」じゃなくて。

この人の前なら無条件に泣けるという人を見つけたい

次のステップは、時間はかかるかもしれないけど、この人の前なら無条件に泣けるという人を身近な場所で見つけることかなと思っている。少しずつ、私と関わってくれている人たちに私の弱みをシェアしたい。そしたらいつか誰の前でも自分の気持ちを素直に「泣く」という形で表現できるようになる気がする。
いつになるか分からないけれど、それができた時に、私はまた少し自分の事が好きになれるような気がする。

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