わたしの通っていた小学校の通知表には、生活面の項目に「挨拶ができる」「係や当番の仕事ができる」などのほかに、「友達と仲良く遊ぶことができる」があった。

この項だけずっと◯が付かず空欄だったわたしは、小さい頭を捻って先生のいる時に先生の目の前を狙って、普段仲の良い子ではなく別の子と遊んだ。

学期の終わり、通知表が返されると◯がついていた。努力が報われたはずなのに、全く喜べなかった。それどころか、どこか虚しさを覚えた。
当時、わたしは空欄より◯が良いと思い込んでいたけど、本当にそうなのだろうか。なぜ「ひとりで遊ぶことができる」は評価されないのに「友達と仲良く遊ぶことができる」は評価されるんだろう。

正直、わたしは今も昔も人と遊ぶことが苦手だ。

これは幼稚園の頃から自覚していたことだった。
共働きの家の子であるわたしは頻繁に預かり保育に通わされていた。帰りが遅い家庭のために子どもを夜まで預かってくれる制度だ。
いつものように預かり保育に行くはずの放課後、先生に見つからないようにこそっとみんなに紛れて送迎のバスに乗り込んだ。

預かり保育から逃げ出した

家に帰ると預かり保育の有無を知らないおばあちゃんが笑顔で出迎えてくれて、怒られるんじゃないかと少し緊張していたわたしは安堵した。そのあとはいつも通り、大好きなジブリ映画を観て過ごした。

なぜ預かり保育から逃げてきたのかというと、わたしにとっては先生や他の子と遊ぶよりも一人が楽しかったからだ。なぜ幼稚園という決まった時間が終わってもなお「仲良く」「楽しく」遊ばないといけないのか、わたしにはわからなかった。預かり保育では絵を描いたり絵本を読んだりするひとり遊びが許されなかったから、なんとなく居場所がない気がしていた。

小学校に入学してからも、昼休みに行われるクラス全員遊びは苦手だったし(図書館で本を読みたかった)、クラスの女子全員が好きだった国民的アイドルグループをわたしだけ好きになれなかった。
素直に「興味がない」と言えればよかったが、当時はそのアイドルを好きになれないなんて絶対におかしい!という風潮だったので、わたしはメンバーの顔と名前を一生懸命覚え、友達の家でライブ観賞会が開かれる時に周りが「かっこいい」と思うタイミングで一緒に叫べるようになった。みんなから弾き出されるのが怖かった。

段々、毎週土曜日に鳴る友人からの「今日遊ぼう!」という電話自体に布団の中で怯えるようになった。ある日、具合が悪いと母に伝え、誘いを断ってもらった。この気持ちは母に理解してもらえず、せっかく誘いの電話なのに、とぶつぶつ言われ、みんなと遊ぶ方が良いのになんで自分にはそれができないんだろう、と自己嫌悪に陥った。

「人と一緒にいること」にもなれてきた

歳を重ねて人と一緒にいることにはだんだん慣れてきたけど、慣れたとは言っても、それで楽しい!テンションが上がる!というわけではないので、大学に入ってからは特に酒の席で困った。

世間一般ではお酒を飲む=楽しい、テンションが上がると認識されているので、自分のテンションの低さを見た人から「もっと飲んで自分を出した方がいいよ!」と言われた。まるでお酒を飲んでテンションの低い人間は存在しないという物言いに、悲しくなった。自分を出すってどういうことなんだろう。同じくらいテンションが高くないと変なのだろうか。
お酒が入ってどんどん陽気になっていく周りのノリについていけなくなる自分は、小学生のライブ鑑賞会中の自分から何も変われていなかった。

楽しめる人がキラキラして見える

生まれてこのかた、大多数の人の好きなことと自分の好きなことが合わなかったわたしは、大多数寄りになろうと必死だ。
だってこの社会では、その場のマジョリティと合わないと「変なやつ」扱いをされる。もしくは通知表が空欄になる。「あなた変わってますね」、「君って変なキャラだね」。表現は色々あるけど、なぜか主語はいつもこちら側だ。みんな自分が変かもとは思わない。通知表もひとりで遊べることは評価しない。みんなと仲良く遊べてはじめて◯がつく。

世の中にはひとりごはんやひとり旅、ひとり遊びを楽しんでいる人もいるしそういう人のことは素敵だと思う。でも、自分の中では幼稚園の頃からみんなと遊ぶ方が正しくて良いことだという価値観が刷り込まれている。もちろん、ひとりで遊ぶことはみんなと遊ぶことより劣っているという価値観も。

こういう価値観が当たり前のように刷り込まれるから、普段みんなと仲良く遊んでいる人がその場の少数を追い出すことに熱心になったりもする。
自分は追い出されないように努力もするが、そういうのを見るたびに、通知表が定義した「友達(みんな)と仲良く」が本当に正しいのか疑問に思う。
みんなはたまたまマジョリティなだけで、場が変われば少数にもなり得る。いつだって「変だね」の主語になる可能性がある。
みんなの分しか椅子を用意しないのではなく、みんな+α分の椅子が用意された社会になれば、誰かが椅子取りゲームに負けて弾き出されることもなくなる。
みんなと仲良くが必要なのではなく、誰かの分の椅子も用意できるかどうかが大切だと今のわたしは思う。

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