「出身はどこ?」
定番とも言えるこの質問が、私にとっては恐ろしい。上京してから数えきれないほど聞かれたにも関わらず、だ。聞かれるたびに「うわ、来たよ」と身構えてしまう。
私の地元は東北だ。「地方」という括りの中でも、「地方らしい地方」だと言えるだろう。
そんな地域出身だと告白するには、毎回勇気がいる。それは、出身地のせいで傷つけられてきた経験があるからだ。
都会で恵まれた教育を受けてきた人を、心底うらやましく思った
「二外(第二外国語)○○弁なの?」
上京して1週間も経たない頃に言われた言葉だ。あるサークルの新歓イベントで言われたこの言葉は、大学4年生の終わりを迎えようとしている今でも、胸に張り付いている。
「地方出身」だと自覚させられたのは、いじりだけではなかった。教育の面でもそうだった。特に格差を実感したのは、英語だった。
地元の中では進学校に通っていたし、高校まで勉強面で手を抜いたと思ったことはなかった。英語は自分の中でも得意科目だったこともあり、大学では海外に留学したいと考えていたほどだった。
ところが、同じ受験をくぐり抜けてきたはずなのに、関東の私立や中高一貫校出身の、いわゆる「育ちのいい」人たちには、発音、ボキャブラリー、スピーキング、リスニング…あらゆる英語のスキルで全く歯が立たなかった。そもそも英語のネイティブスピーカーに接する機会も、都会と地方では雲泥の差がある。地元では海外転勤がある仕事に就いている人も少なく、大学に来て、まず帰国子女の多さに驚くところから始まった。
英語に関しては、それくらい次元が違っていた。都会で恵まれた教育を受けてきた人を、心底うらやましく思った。
高校時代、受験前に教師が言っていた「英語で都会の人と勝負できると思わないほうがいい」という言葉の意味を、大学に入ってからようやく理解できるようになった。
「育ちのいい人」たちが遊んでいる間に、追いつき、追い越さなければ
そんな「自分は『育ちが悪い』」という劣等感は、「留学する」という意思を強固にした。自分の通う大学が、学業よりもサークルや遊び重視の雰囲気だったこともあり、「『育ちのいい人』たちが遊んでいる間に、追いつき、追い越さなければ」という、よく言えばモチベーション、悪く言えば「育ちのいい人」への憎しみに転化した。
そんな感情を文字通りバネにして、なんとか必要な語学のスコアも取得し、私は1年間の留学にこぎつけた。
正直「育ちのいい人」に追いつくほどの英語力を1年間で得られはしなかった。その代わりに私が日本に持ち帰ってきたのは、「私は地方も東京も、海外も知っている。都会しか知らない人たちよりも広い世界を見てきた」という「曲がった」自信だった。
「都会育ちの人より自分が優れている」と思い込むしかできなかった
最近では、「出身」の違いにばかり目を向けていたのは実は私のほうで、周りはそれほど気にしていないのではとも思う。差異を理由に他者を遠ざけていたという意味で、私は差別的な人と本質的に変わらないのかも、と自省している。きっと、何かにつけて「私は地方出身だから~」を枕詞にしていた私に対して、周りは「気にしすぎ」と感じただろうし、傷つけてしまってもいたかもしれない。
しかし、当時の自分は「都会育ちの人より自分が優れている」と思い込み、その人たちを見下すこと以外に自分を守る方法を知らなかったのだ。そもそも「地方出身」を重い十字架のように感じるようになったのは、自発的にではなく、傷つけてきた人たちがいるからだ。せめて私一人でも、そんな自分の汚い感情を肯定してあげたい。
「東京が嫌い」と言いながら、結局私は地元を捨ててしまったのか
大学卒業間近の今でも、自分を「東京の人」とは思わない。「東京観光4年目」くらいの表現がちょうどいい気がする。それくらい、私のアイデンティティは今でも地元にある。
さすがに上京4年目にもなると、地元ネタを振られたとき、自分から「何もないよ」「田舎だよ」と返して、いじられることなく上手く交わせるようになってきた。「東京で上手くやれている」自分を誇らしく思うと同時に、「都会の価値観に迎合している自分」にちくりと胸が痛むのも感じる。
実際、就職先を選ぶ際、「東京に戻ってこられるか」が一つの判断基準になった。本来「戻る」場所は地元だったはずなのに。
教育、雇用、賃金―。あらゆる側面において、東京と地方の間には、確かに格差が存在している。ここに記した私の気持ちが単なる「田舎者コンプレックス」として消費されることも、格差自体がないものにされるのは本意ではない。
でも、そんな「東京でしか手にできないもの」は、地元への愛着を上回るほどのものなのだろうか。
「帰れないふり ここ東京」
大好きなチャットモンチーの、『いたちごっこ』という曲の一節だ。
地元に帰らないのを「東京にしかない何か」のせいにして、結局自分も都会中心の考えに染まっているんじゃないか―。このフレーズを聞いて、そんな後ろめたさが頭をよぎった。
「『東京が嫌い』と言いながら、結局私は地元を捨てて、嫌いだった『都会の人』になってしまっているんじゃないか」
心の底にある、そんな罪悪感に蓋をして、私は東京の街を歩く。「東京にしかない何か」を探し求めるように。