学生時代、身体の病気で保健室登校をしていた時、人間関係で揉めてるわけでもないし、むしろ学校が好きだったのに、事情を知らない人からしたら私はただの"不登校"になり、同級生の親に事実ではない噂を流されたことがあった。
小学生の頃から根も葉もない噂を流されることがあったので、学生時代は噂をされることに慣れすぎてしまい、当時の自分はそう言われることに対して何とも思っていなかったけれど、自分が大人の立場になって社会に出たときに、周りの偏見やつくられた噂よって生きづらさを感じる瞬間があって、それが不登校や自死を選んでしまう原因の一つであるということを改めて知り、自分の過去と今を重ね合わせて考えるようになった。
自らの命を奪いたくなる瞬間
Twitterやテレビでこんな言葉をよく目にする。
「早く死なせてほしい」
「仕事中、涙をこらえるので必死」
「今日も死ねなかった」
こう呟く人の中には、いじめや家庭環境が原因で自分の居場所がない人、ADHDや自閉症スペクトラムなど見た目ではわからない障害に対し理解がなく人間関係がうまくいかず孤独を感じている人
全く関係ない人からすれば、それは大体他人事で終わってしまう。
私が経験した不登校による偏見や噂は今もどこかで起こっていて
"死にたくても死ねなかった"
"飛び降りようと思ったけど怖くて勇気がなかった"
"明日こそ死のう"
そう考えてる子供が今この瞬間も沢山いる。
同じじゃなきゃいけない、他と違う行動をすれば変なやつだと笑い者にされていじめにあう、学校に行かないだけで"不登校"という言葉で偏見を持たれてしまう。
学校に行きたくても行けなくなってしまった子供たちが精一杯求める"助けてほしい"という声も大人の見て見ぬ振りでかき消されてしまうし、学校に行かないという選択を不登校という悪い意味だけで捉える大人の目は、子供達を苦しめていると私は思う。
子どもが選んだ自由が偏見にさらされることなく、自由であることが当たり前になってほしい。
“関係ない”で終わらせる人が多すぎて
ちょっと違う発言や行動をしただけで仲間を作って悪口や文句を言う大人たちをたくさんみてきたし、そんな大人に紛れて生きていくのが時々怖くて、悪い言葉が飛び交う空間にいることが息苦しくなるときもよくある。
見た目や行動で人を決めつけたり最初から否定的になったりせず、相手を受け入れたり理解する心を持つことは大事だと思うのに、大人は教えてくれないからその間違いを自分で気づいていくしかなかった。
学校でも会社でも家庭内でも、生きづらさを感じる問題はたくさんあるけれど今起こってることに対して"自分には関係ない"で終わらせてる人があまりにも多すぎて、こういった異常事態に鈍感になっていく社会に私でさえ生きづらさを感じる。
私が願うこと
21年間生きてきて、死んでしまいたいと思う瞬間私にだってある。
自分の命は簡単に諦めようとするくせに、顔も知らない、何も知らない相手が死にたいと思っていたら"お願い、死なないで、生きてほしい"って、きっと本人も辛いのに強く思ってしまう。
生きづらさは決して偏見だけじゃない、辿ればもっと深くて大きな問題がたくさんある。でも、それを知らない人はたくさんいる。
目を瞑りたくなるような問題はたくさんあるけれど、でもこうした生きづらさをちゃんと問題としてみんなが考えるようになったら救える命は増えると思う。
いつかは、一人一人が自分らしくいれる世の中になること、自ら死を選びたくなるような世の中が変わることを強く願っています。