忘れられない記憶がある。
初めて小学校で性教育が行われた日の放課後、仲の良かった男子に腹を殴られた。
授業は男女別で行われて、女子には生理の仕組みが教えられた一方男子には「女の子のお腹は大切にしてね」と妊娠等に触れた内容で教えられたのだそう。そんなお腹を殴ったらどうなるのかと気になってやったのかな、と頭の中では擁護してみても、それはときどき思い出す悲しい記憶として今も残っている。
どうして何も言わずに流してしまったんだろう?
どうしてあの時私は殴られながら笑ったんだろう?
なんていうか私は受け身だったなとたくさんの「なぜ?」を追いながら思った。
小学生の頃、私の中では「男の三歩後ろを歩く」「どんなことをされても笑って許す」「おとなしくて、にこにこ笑顔の」女が、いい女だった。
それはきっと当時両親たちが購読して家に置いてあった、少年漫画雑誌の影響が強いんじゃないかなと思う。
いつも放課後家に帰って、新しい漫画が所定の位置にあると、それを片っ端から読んでいた。その漫画や巻頭グラビアに関して言えば、女子は「客体」だった。
たとえば露出度の多い水着姿の大きな胸の女性がいろいろなポーズで写っていたり、漫画には確実に一人は胸が異常に大きいキャラがいる。主人公が女子キャラに対して何らかの性的で支配的なアクションを起こす。女子キャラは自分の意思に反して性的な展開になっても受け入れている。
インプットされた理想の女性像
少年漫画から私は、主人公キャラに好かれるような、おとなしくて男子にされることは笑って許すような女性像を理想の姿としてインプットした。
それと同時に、読みながらラッキースケベってイイな、と思っていた。スケベされる側の立場として。
私は異性からの愛を獲得して自己肯定感を高めたかった一方で、思春期真っ盛りで性への関心強めの子供だったから、女子側の受け身が美徳とされる社会で受け身かつその気になっている相手と触れ合えるなんて最高だなと思っていた。
漫画の中でも男キャラは好意のない相手に触りにいくことはない。
つまり、男子から触られること=好きの表れ=良いこと、その認識がなんとなく出来ていた。
そして思えばそれは、私が痴漢やストーカーを「求められるのは喜ばしいことのはずなのに、なんで苦しいんだろう?」と考えるようになったこととも繋がると思う。
初めて電車で痴漢に遭ったとき、私は怖かったが、認められた気がした。いやそう思いたかった。
乗客の少ない平日の午後3時、6両編成の後ろから1番目か2番目の車両。がらがらの車内でわざわざぴったり密着して隣に座ってきた知らない黒ずくめの男は、組まれた腕の下で指先をうごめかして、外からは見えないように買いたての中学の制服の上から身体を触ってきた。
知らない人に「認められたから触られた!」私が思う少年漫画風にいうとそういう事になる。
どうして人間をモノのように触るんだろう?とぶっちゃけ怖かったし、速攻母に話したりもしたが、被害を認めたくなかったから、「きっとなにか事情があるに違いない」と心で擁護した。
考えてみれば、少年漫画的女の美徳、の話とは別に「自分は被害者だ」と認めることは辛く苦しい事だ。認めるには勇気と、そのための時間がかかる。
「普通に起こる事だ」
「この人はおかしくない」
「私はかわいそうじゃない」
「これはボランティアみたいなもの」
「黙って受け入れるのがいい女なんでしょ」
そう心の中で誤魔化して、加害者に「触りたいくらい辛いことがあったんだよね」なんて同情するフリをして、自分の痛みから目を背けた。
女性蔑視的な少年漫画の価値観に迎合してしまって、魅力的だから、手を伸ばされるのだ。と半ばトロフィーのように思いたかったし、私のいた環境で、周りの人達もそう思っていた。だから「痴漢されたってそれ自慢してるの?」と言われたくなくて同級生には被害を言えなかった記憶がある。
辛さを押し込めていただけだった
ただ、向き合うのが怖かった。
大したことがないと思いたかった。
だって、もしも大ごとだったら叫ばなくてはならなくなるから。漫画で男子から何かされた女子は、いつも次のコマでは何事もなかったかのように振舞っていた。漫画の中の女の子は、主人公格の男に何かされて、傷ついたことがない。だから、私も傷ついていないことにしないと、どう振舞えばよいかわからなかった。
振る舞い方が分からなかったから、今まで通りただの受け身の存在として振る舞っていた。
学年が上がって痴漢やストーカー、ナンパの件数が増えてく中で、しばらくの間は被害を「トロフィー」として日常の一つ、取るに足らないものとして受け入れて、きつくても表面だけでもニコニコして過ごしていた。
それに、被害に傷ついてはいたが「これもトロフィーの対価だ」として、多少は、命に関わらなければと思ってられる限りは妥協できた。
どうしてだか、そのような「手を出してくる」おじさん達は私を殺さない・手酷く扱わないはずだと根拠なく信じていた。楽観視していたんだ。
でも、現実はそんなことはない。
ある時、立派な良識ある善人面をして支配欲を拗らせまくった男性と交流があった。彼に頼られたりして接しているうちに、心身ともにボロボロになって、先程述べていた他の今までの被害なども相まって。
現実を認めざるを得なくなった。
「求められるのは喜ばしいこと」なんかじゃなかった。求められている、どころじゃない。痴漢は、ストーカーやナンパとかその他全部のそれは、搾取なんだ。
限界がきて、自分の今までの押し込めていた辛さを認めながら、笑って許して流すなんて無理だなと思った。
この世界には、女性蔑視的な表現が溢れている。子供がいとも簡単にその価値観に触れてしまう環境にある。私も、触れて吸収して内在化してしまった一人だ。
内在化された価値観を変えることは簡単じゃないし、時間もかかる。でも、当時の私に私はたとえ綺麗事であっても「わざわざ我慢して、笑って許してあげなくてもいいんだよ」と言いたい。
男はバカだから、とか少年の心を持ってるからとか、そんな言葉信じなくていい。男も女もそのどちらでもなくても、皆等しくおなじ人間だ。
「女だから」って、男性のことを甘やかしに行かなくていいんだよ。あんたも本意じゃないことは嫌だと言う権利があるし、人間扱いされて然るべき生き物なんだよ、と昔の私に言いたい。