なんのために一緒に住んでいるのかわからなくなった。

きっかけは、母が、子供が大きくなったのをきっかけに正社員になったこと。
そして、少しずつバランスが崩れ始めた。

この前までは、家に帰ると、母がいた。
2人でお茶を始める。座ってクッキーを食べながら一日あった事やちょっとした相談をする。
母は布団を家族全員分片付けていた。部屋の掃除もしてくれていた。

でも、そんな時代はもう終わった。母が働く家には誰もいない。鍵を取り出しドアを開けると、そこには静寂、それから溜まった洗濯物とお皿。
みんなが疲れている。私も疲れている。

生まれて20年、初めて家事をやってみることにした

このままではアカン。そう思った私は、家事をやってみることにした。生きてきて20年弱、初めてやる家事。空気の入れ替え、掃除機、洗濯。机を拭き皿を洗う。トイレ掃除に風呂掃除。そろそろ布団をしまおうかな。それから料理。1人なら3食だけど、3人なら9食、4人なら12食、人なら15食…。
ゴミ捨てに洗濯物たたみ。まだまだ続く、エトセトラエトセトラ…

一人で全てをやろうとした私は、疲れてしまった。周りの協力もあてにできない。

自分のお皿は自分で洗う、それだけで仕事量は半分に

そこで話し合って決めたのが、家事全体をそもそも少なくすることだった。それに母との綿密なコミュニケーションも心がけた。例えば、洗濯物は洗うが、たたまず返却。各自がたたんでしまう。風呂は気づいた人が洗う。自分のお皿は自分で洗う。
協力してくれる人が少なくても、2人で割れば仕事量は2分の1になる。大きな進歩だ。

それから何より大事なのが、<買うこと>であった。
アイロンの手間を省くために、クリーニングに出す。PMSでご飯が作れない日には、買う。「牛乳まだある?」「もうないから買ってきて!」
そんなコミュニケーションが、家の円滑化に繋がった。

母は「めし」を作る道具ではない。私は母を応援したい。

母が家にいない事はさみしい。
機械化された時代、女性の社会進出の時代、そういう時代の変革期にあってぼんやりとした喪失感を感じたりもする。

でも、それが逆に<家事>というもののあり方を見直すことに繋がった。
母は「めし」を作る道具ではない。母は母なりの世界を持って社会の中で頑張っている。私は母を応援したい。

同じ社会の中で頑張る人たちが、夜1つの場所に運命によって家族という形で集う。そしてご飯を食べながら話す。ある日は誰かがケーキを買ってきてみんなで食べたりする。お茶は私、コップはあなたがだす。そうやって協力しながら。
紅茶を注ぎながらふと思った、「そうだ、これこそが、一緒に住むことの意味ではないか!」