この胸の痛み、もしかして恋!?
そう思わなければ精神の安定を保てませんでした。こういう時はカメラロールに入っている、片岡鶴太郎さんの「救心」の電車内広告を見て心を休めます。
東京とはいえ寒い1月下旬。キリキリした胸の痛みを抱えて毎日バスに揺られ単語帳を開き、学校に向かいます。
去年の今頃、2019年のわたしは受験生でした。
「まあ何とか受かるっしょ」とのろのろマイペースでした
自分は入試改革前のギリギリの世代。
とはいえ入試改革が進められていく中、「稀に見る難化傾向にあり」「高まり続ける安全志向」などボジョレヌーヴォー並みに煽られていました。
自分は高3の6月まで運動部で活動を続け、「まあ何とか受かるっしょ」などと判定ではいつもDの国立大学を希望していました。この教授の授業がいい!とか、この学科の内容を学びたい!とかいう意識高めな志願理由ではなく、ビビッときたからなどという野性的な勘のみでその大学を志望。自分がもしそんな生徒を持ったならヒヤヒヤして毎日「救心」の広告を見ないといけないと思います。
そんなこんなでのろのろマイペースに勉強を進めました。あの頃の自分に会えるなら滝行に連れて行って全ての煩悩を払ってやりたいと思うくらいにはマイペースでした。
「夏明ければ成績が伸びる!」なんて嘘やないかい!
季節はいつの間に移り変わり冬。教室から見える夜空を見上げては「きょうは、どんなそらが、みえるのかな?」というポワポワインスタグラマーのポエムが浮かんでしまうようになります。
「部活を引退したら3ヶ月後には成績が伸びる!」「夏明ければ成績が伸びる!」
いやそれ、全部嘘だな?
そう、スランプから抜け出せないのでした。
決して傲るわけではありませんが勉強をしていなかったわけではありません。
ただ、模試を受けるたび受けるたびに自分の成績のバランスが崩れるのです。
何かが上がれば必ず何かが下がる。揺れ続けるやじろべえのような状態でした。
初めて模試の結果で母の前で泣いたのは12月です。毎週の模試の受験料に見合った成果が出せなくて、成績が上がらなくて、ひたすら謝りながら泣いた気がします。
そこから、本格的な心の乱れを感じるようになりました。
「高い偏差値の学校に行く」ということに固執していた
結局センター試験の自己採点結果は自己最高点を出せたものの、志望大学に出願するには中々に大博打な点でした。
そこから担任の前で号泣しマスクの中を鼻水だらけにした末、縁もゆかりもない別の国立大学の見学を勧められ、私立受験の4日前くらいにはじめてひとりで新幹線に乗って行きました。
この担任が目先のことではなく10年後のことも考えろ、努力ではどうにもならないことがある、とたくさん諭してくれました。ですが、その時の私には全部私を非難する言葉にしか聞こえていませんでしたし、もちろん私立受験の前日も取っ組み合いました。
この時期、何をしていても胸がキリキリと痛み、あんまり同級生とお話ができなくなりました。
この胸の痛みが解消されたのは、国立大学の出願を志望大学から担任の勧められた大学に変えた頃くらいです。
パンフレットと要項を机の脇に置き、志望学科に所属する学生が作ったリーフレットを枕元に置き、今思えばそこしか知らないが故の盲目があったような気もします。ひとたび声に出した志望を変えることへのプライドが邪魔をしていた気もします。何より、「高い偏差値の学校に行く」ということに固執していたのだと思います。
受験は勉強だけでないたくさんのことを教えてくれたような気がします
現在私は、志望大学とも実際受験した国立大学とも違った大学に進学しました。まさか進学すると思っていなかった、周囲の人から勧められるがままに出願した女子大で、高校の担任の言葉をちゃんと噛みしめられるようになりました。
俗に言えば私は「受験に失敗した」人ではありますが、この受験が勉強だけでないたくさんのことを教えてくれたような気がします。
自分の能力には限界があるし、自分が望んでもどうにもならないことがある。やりたくなくてもやらなきゃいけないことがある。諦めることが大切な時もある。そんな当たり前だけれど気付きたくなかったようなことが少し分かりました。
この大学受験がごく普通の女子大生に与えた影響は良くも悪くもとても大きいものでした。
と、森のような大学に通う「1女」は1年前を振り返ってみたこととします。