雑誌を買って、街を歩いて、可愛い洋服やアクセサリーを見ると心が躍る。
お店に飾られているマネキンを見て「なんて可愛いんだろう」と思って、店員さんに頼み、試着させてもらう。
ワクワクしながら袖を通す。…けれど、通らない。
ズボンやスカートがおしりで止まる、なんとか履けてもボタンを締められない…
さっきまであんなに可愛かったお洋服が、着てもらうことすらできず歪な形で固まっている。
試着室のカーテンの中で1人、絶望する。
なんとか笑顔を作って店員さんに渡す。
「すみません、ちょっとサイズが合わなかったみたいで~」

「フリー」の範疇に入れない、私の体

こういうことは一度や二度じゃない。でもそれが毎回でもなくて、7割くらいは着れてしまうから果敢に試着してしまう。
サイズ表記は「F」。フリーサイズだ。
Sでも Mでもない。
つまり服のサイズが合わなかったんじゃなくて、私の体が服のサイズに合わなかったということだ。
その事実を突きつけられるたび、私はひどく落ち込んでしまう。あの可愛い洋服の想定している体型から、私は外れているのだ。「フリー」の範疇にすら入れなかったのだ。

雑誌のモデルさんを見ても、美容系インフルエンサーの方々を見ていても、「美人」「可愛い」と言われる人たちは皆細い。確かに彼女たちは綺麗だと思う。

でも、だからと言って丸い人が可愛くないなんてことはないはずなのに。

私は仏像が好きで、ミュシャの絵が好きだ。芸術の世界では豊満な肉体の美しさもたくさん描かれている。

なのにどうしてこの社会は丸いことに対して厳しいのだろう。
よく動かない怠惰な人間に見えるのだろうか。
むしゃむしゃ食べるあさましい人間に見えるのだろうか。
努力次第で痩せれるのにサボっているように見えるのだろうか。

最初から私が「太っている」と言わずに「丸い」と言っているのは、「太っている」という言葉にどうしても優しさを見出せなくて自分で言うだけでも辛くなるから。
憐まれたり、馬鹿にされたり、笑われた記憶が頭を過ぎるから。

いくら「フリーサイズ」から外れていても、太っていると言われても、私のBMIは「標準」の範囲内で、いたって健康体だ。本当は心配される必要も、減量する必要もないのだけれど。

フリーサイズに悪意なんてないのはわかっている。
私の丸っこさを笑う人が私の自尊心を踏みにじろうとまで思っていないこともわかっている。
私だって笑ってツッコんだり、ネタにしたりして「太っている」ことをコミュニケーションツールとして利用している。

だけどその積み重ねなんだと思う。そういう安易さの積み重ねが、痩せている方が美しいという「ふつう」を作り上げているんだろう。

「ふつう」を作る加害者になっていないか

私はその「ふつう」に傷つけられてきたから思う。
私の安易さ、無神経さもまた何かの「ふつう」を作り上げ、誰かを傷つけていないだろうか、と。

私は痩せたい。痩せて綺麗になりたい。
でも丸いままで、丸いからこその魅力を武器にして、もう誰にもバカにされないくらい美しくなりたい。
だけどそれ以上に私は、自分が傷つけられたらもう誰にも同じような思いをさせまいと心に誓えるような「強くて優しいマトモな大人」になりたい。

「周りの目なんて気にするな」そんな綺麗事の強さじゃなくて、
いっそとことん傷ついて苦しんでひとしきり泣いて、
そうして「ふつう」に収まり受け入れられるための『被害者にならない努力』だけじゃなく、「ふつう」の枠を優しく溶かす『加害者にならない努力』をできるような、そういう大人が増えたら
きっともっと優しい世界になるはず。

だって誰しも、たくさん傷ついてきたでしょう?