小学生の頃から人前で意見を言うことにあまり抵抗がなかった。
ことあるごとに母がした昔話がそれを物語ってる。
「あなた入学式で、はい!!って手を挙げて『鉄腕アトム!!!』って言ってたのよ。覚えてる?」
入学式で校長が何かの話の流れで鉄腕アトムの絵をみせて「誰か知ってますか?」と子供たちに尋ねた時の私、らしい。覚えてないが、私がぴっしり手を挙げてる瞬間の写真が残っていたからホントの話。
意見を言うことがこんなにもいけないことで、敵をつくる事なんて!
空気を読んで意見をあまり言わない子供が増えた、といわれる世の中に逆行するような小中高時代を過ごした。今思えばかなり周りの人に助けられ、恵まれた学校生活だった。
大学生になって、人との「ぶつかり」が初めて起きた。
サークルの新入生歓迎会の時、私が「あの、煙草ちょっと…」と言った。
だって前に立って仕切る先輩が煙草を吸いながら誰かに指示出すのも変だし、煙が嫌な人もいるし、何も良くないじゃん。
「あ?」
先輩が掴みかかろうとしてきた。他の人が止めてくれたけど、私を見るたびに睨みつけたり部室でも話の輪に入れないようにしてきた。「1年生は先輩に意見しちゃいけない」というルールがあるなんて初耳だよ!
だいぶしょぼい嫌がらせにおびえてたな~と今は笑えるけど、当時はこんな些細な「ぶつかり」で人に嫌われるのかとショックを受けた。他の先輩たちからは「あいつはやばい1年だ」なんて騒がれ、1年以上そのイメージがついて回った。直接話したこともない赤の他人に「噂に聞いてるよ~(笑)」と言われる不快さといったらたまらない(この見えない(笑)がむかつく)。
意見を言うことがこんなにもいけないことで、敵をつくる事なんて!
人から“嫌われた”と思った途端、まとわりつくような不安や不快感が、拭えなかった。
100人中99人が好きと言ってくれても1人のアンチコメントが芸能人を悩ませる意味も実感した。「人のことなんて気にしなきゃいい」がいかに強者の意見か、も。
自分勝手だと否定されるくらいなら言わない方がいい。
意見を言えばいうほど自分が傷つくし、得なんて絶対ないんだ。そう考え始めて面と向かって意見を言うことが少しずつ減っていった。
私は伝えるための努力をしていなかった
でも自分のことを全部わかってくれなくったって、人間関係は築けるし、問題はない。そんな風に思っていた。
1年前に恋人が出来てからはそうはいかなくなっていった。自分のことをわかってほしい一方で、わかられる事におびえるようになった。「なんでもいいよ」「〇〇がいいなら合わせるよ」が口癖。意見の押し付けと思われて嫌われたり、否定されるのがとにかく怖くて、相手に合わせるのに必死になっていた。
初心に帰りたくなり、成人なりたての私が書いたブログを見返してみた。3年も前のことなのかあなんて感傷に浸っているとこんな言葉が目に飛び込んだ。
「ただ、人の言うことをすべて肯定して、ニコニコしていることが、本当の優しさ、なのか。ニコニコしていることが、本当の優しさ、なのか」
「何かもっと、わかりやすくしないと、伝わらないんだろうな」
まさか自分の言葉にハッとさせられるとは思わなんだ。
3年前から変っていない。とにかく困ったら「ニコニコ」して誤魔化すべき、そんな空気の読み方にずっと違和感を感じている。それは相手のためにではなく、自分が傷つかないためで、優しさでもなんでもないんだと。
そして私は伝えるための努力をしていなかった。
私の意見はどうせ相手を納得させられない、という内向きの否定がいつの間にかどうせ言ってもわかってくれないという外向きの否定も招いていた。
意見が通らないことは自己の否定に直結しない
そんな私を変えるべく、新年さっそく恋人とミーティングをしてみた
相手が嫌だったことや、嬉しかったことだけでなく、私が嫌だったことや今後してみたいことも言ってみた。実はパンケーキとかファンシーな所行ってみたい、とか最近は外に出かけることが少なくなったけど実は旅行なんかもしたい、とか。
「え、前はただ『行きたい』だけだから乗り気じゃなかったけど、そんなに良いなら行きたい!」「嫌な事ばっかりじゃないし、〇〇が行きたい所なら一緒に楽しみたいよ」
そんな言葉が聞けるなんて思ってもみなかった。
この点は価値観が違いすぎるから合わせよう、なんてことも歩み寄ってみるとお互い良い着地点が見えてきたりする。
意見が通らないことが自己の否定に直結しないこと。自己の否定は相手への否定にも繋がること。そもそも人間関係に損も得もないんだ。
当たり前のことだけど、自分の殻に閉じこもって見えなくなってしまいがち。
それを忘れず2020年は過ごしたい。