真っ白な紙。筆が進まない。一文字も書けない。色紙を前に、便箋を前に、頭を抱えたことは数えきれないほどである。ライターである私が、ライターになった今でも、書けないものがある。
エッセイや記事なら1,500字だって4,000字だって、書けるというのに、全くもって書けやしない。

好意のない相手に贈る言葉って…

そう、色紙や便箋という単語で気づいたかもしれないが、私は手紙を書くのが苦手だ。どのくらい苦手かというと、色紙は必ず人が書いてからそれをつぎはぎしたありきたりの文を書き、便箋の手紙はネットでよい文章を調べてそれをほぼそのまま真似したりしていた。テンプレートってものにはとても助けられた。便箋の手紙は書く機会があまりなかったから助かったけど。色紙に寄せ書きする時はいつも人の文章を真似て思いのこもっていない言葉を連ねていた。当然寄せ書きを贈られる相手への好意も興味もない。

好きでも何でもない相手に贈る言葉がないのなんて、普通のことだ。そんなの気にしなくたっていい。私は心からそう思って、寄せ書きなどの機会が来る度にネットや先に書いた人の文章を真似た心のこもっていない言葉を書き続けた。だってこれは、課題だから。こなさなければならないのだ。寄せ書きを拒否すると面倒だから、それっぽい言葉を連ねる。それっぽい言葉に感動する相手のことを、内心では馬鹿にしていた。そこに気持ちなんかこもっていないのにないものを感じて感動できるなんて馬鹿みたいって。同時に誇らしくもあった。自分は言葉で人を騙してしまえるんだ、と。
中学の卒業アルバムに嘘っぱちの「離れても友達だよ」を書いた辺りから、だんだん気づき始めた。私は、好きな人にすら、手紙を書けなくなっていたのだ。
理由ははっきりしない。けれど、今まで嘘っぱちの寄せ書きや手紙、感想文を量産して、受けとる相手を騙し続けてきたことは無関係じゃないだろう。こんなことを綴りながら、私は反省していない。書かねばならないけれど、相手への気持ちがない状況で、他にどうすればよかったというのか。しかもそんな文章を褒められることに快感を覚えてしまった子どもは、どうすればよかったのか。
わからない。どうすればよかったのかと言われても、どうしようもなかった、なるべくしてなった、としか言いようがない。

気持ちを伝える能力が低下

でもそれで、何らかの能力の低下を招いてしまった。それは惜しいと思う。何故ならその低下した能力とは、好きな人に気持ちを伝える能力である。
例えば好きな漫画家にファンレターを送ろうとした時。私の言葉は、出てこなかった。嘘ばかり並べ慣れていたから、素直な好きの伝え方がわからなくなっていたのだ。好きを言葉にする術まで、私はどこかに置き去りにしてしまったのだ。

どうしよう、私だって好きな漫画家の方や離れてしまう大事な友人をはじめとした好きな人にファンレターを書きたい。好きだよって伝えたい。何故ならファンレターをもらうことは好きな人の力になるはずだから。もっとわかりやすく言うなら続編が出るとか、新刊の発売が決定するとか、そういった類いの力になる。そのはずだ。
なのに書けない。あの人を応援したいし、実質的な応援の力としても力になりたいのに、書けない。ファンレターは好きですを連ねればいいものではない。どこがどう好きなのか、書きたくて、でも書けなくて、私は悔しくてたまらない。
どうでもいい相手に気持ちのない言葉を連ねている場合じゃなかったのだ。好きな人に言葉を届けるべく、下手でも拙くてもいいから好きな人のために文章を綴り、己の言葉を磨くべきだったのだ。
もう大人だ。色紙や感想文を強制されることはない。拒否する自由だってある。どうでもいい相手に言葉の無駄遣いなんかしないで、好きな人のために言葉を綴る。「好き」を拙くても言葉にしていく。