私は「放置された病気の子ども」だった。

精神疾患は、あらゆる要因が絡み合って発症する。だから患者は、分かりやすい要因を他人に説明することが困難だ。そして特に子どもは、小さければ小さいほどそれが難しい。

思い出せる限りで、私は6歳の時に精神疾患の変調があった。しかしやはり、その要因や症状を口に出して説明するのは難しく、子どもの私には至難の業だった。

精神疾患は怠けでもなければ、放置して治るものでもない。今は常識になったが、10年、20年前は違った。精神病は怠け者の証拠で、気合いや根性で治るものだと思われていた。少なくとも、私の周りの大人達は、そう思っていた。

7人の大人に、私なりのSOSを必死で発信したのに

小中学校の担任たちと保健室の先生たち、塾の先生、そして両親。思い出せるだけでも7人の大人に、私は私なりのSOSを必死で発信した。家庭の不和のこと、保険証がないこと、とても貧乏なこと、そのせいで病院にいけないこと、そして数々の体調不良についてだ。

明らかに異常な頭痛、過呼吸、耳やのどの違和感、視界が狭まる感じ、集中力の欠如、会話もままならない倦怠感。(私が大人になってから自力で病院に行き、医師との面談の結果分かったことだが、これらはすべて「うつ病」の症状だった。)時には保健室のベッドの上で動けなくなり、泣きながら訴えたこともあった。熱血で評判の先生に、どうすればいいか相談することもあった。しかし彼らは一様にこう言うのだ。「親に相談しているの?」

親に相談しても解決しないから、あなたに相談している。そう言っても、大人たちは「なるほど」とはいわない。「しっかり親と話し合うように」「熱はないね。次の授業は休んでいいから、その次からは出るように」決まってこういって、彼らはいなくなる。

誰も私を助けることはできなかった。7人も大人がいて、たった1人の病気の子どもを病院に連れて行くことすらできなかったのだ。

7人だ。ぼんやりと顔や状況を思い出せるだけでそれだから、実際はもっと多かったのかもしれない。私は悟った。私を救ってくれる人間はこの世にはいない。

私はとても繊細で、両親の能力では育てられない子どもだった

親は子どもを育てるものだが、皆が皆その能力を持って親になる訳ではない。子どもを育てる能力を持たずに親になったり、途中でその能力をなくしてしまったり、子どもがその親の能力では満足に育てられない特性を持っていたり、親と子どもの気質がどうしようもなくあわないこともある。

私の両親は善良な人たちだったし、悪気はなかったと思う。悪いのは単純に貧困と、相性だ。私はとても繊細で、彼らの能力では育てられない子どもだった。客観的にそう思う。

20歳の誕生日の1ヶ月と少し前に、一人暮らしを始めた

20歳になる少し前、東京で一人暮らしを始めた。一度も内見をせずに場所と値段だけで決められた6畳一間のアパートに、母が電話一本で契約をした。

4月初めの、引っ越しの日の朝。私の生活用品が全て乗った父の運転する軽自動車で、一晩かけてようやくついた一人暮らしのアパートは、狭くてとても気に入るものではなかった。病気の私は、ここに一人放り出される。20歳の誕生日の1ヶ月と少し前だった。

最悪の20年間だった。これからもどうなるか分からない。そんな19歳の私があるひとりの人と出会う。電話一本で決められたアパートの別の階に、同じ日に引っ越してきた1つ年下の人で、私が27歳になったいま、最愛のパートナーとして共に暮らしている人だ。

私は「生きる意味」をはじめて見つけた。それは最悪の20年間を耐え切った私への、ごほうびのようだった。

生きているのであれば、いつか、そんな未来が叶う可能性もある。何年、何十年かかるか分からない。それを待っている間に、あっけなく人生が終わるかもしれない。でも「きみの願いはちゃんと叶う」と、27歳になった私はあのころの私にいえる。

生き抜いて、今ここで生きているからこそ、胸を張っていえるのだ。