生きづらさを発信することに意味はあるのか
私は悩んでいた。自らの苦悩を言語化し発信することに、ばら撒くことに、意味はあるのか。
自虐風自慢も奴隷の鎖自慢もしたくない
例えば笑えるくらい軽いもの。ニキビが出来たとか、(私からすれば大事件だけど)、欲しい商品が品切れだったとか、美容院で失敗したとか。
例えばやすやすとコメント出来ないほど重いもの。本気でこの世から消え去りたいと身動きが取れなくなっているだとか、持病が悪化して八方塞がりだとか。
そういう日々の出来事を、時にはストレートに、時には比喩的に、そして時にはおちゃらけて、Twitterなどの手軽なSNSにつらつらと書き込んでいた。
だけど、ニキビが出来ただなんて、他人からしたら「だから何?」「そんなの日常茶飯事ですけど?」などと思われる可能性が高い。そういうものに本気で苦しんでいる様は「私はいつも肌が綺麗ですよ」という自虐風自慢に捉えかねられない。
また、あまりにヘヴィーな話題は「私はこんなにも不幸なのだ」という奴隷の鎖自慢になりかねない。自分の苦しみの暴露により相手の苦しみレベルを相対的に下げてしまう、またはそのような感覚を与えることはあってはならない。その人の痛みはその人だけのものなのだから。
実際に私も他人の書く文章を読んで、両方の感覚を覚えたことがある。
ああ、自虐風自慢も奴隷の鎖自慢もしたくない。
誤解されるくらいなら、沈黙するしかない。
そう思い、少しの間SNSの投稿を控えていた。
書くことで何かしら他者に与えるプラスの側面もあるのだ
しばらくすると友人達から安否確認のLINEがポンポコとんできた。
嬉しいやら悲しいやら、とりあえず「生きてるよ」と返信する。
そんな時、何人かにこう言われた。
「白川おいがあの日投稿した言葉をずっと覚えてる。私の気持ちを分かってくれる人がいるんだ、って衝撃だった。絶対に誰にも分かって貰えないこの異常な感覚を言葉にして、書いてくれた。理解者がいてすごく嬉しかった」
「人生の中で時たま感じる違和感を言語化してくれて、救われる気持ちになることがある」
「あの比喩で、自分の気持ちがストンと腑に落ちた」
「おいは感情の解像度が高い。書いてほしいし歌ってほしい。」
私に対して好意的な人達からのメッセージだったので、勿論そう思わない人も多いと思う。でも、書くことで何かしら他者に与えるプラスの側面もあるのだという事実にとても驚いた。完全に自己満足の為だと思っていたので、素直に嬉しいと思った。それはもう、申し訳ないくらいに。
書くことで、投稿することで、気持ちがスッキリすることもある
「コンプレックスをアドバンテージにする」このサイトの趣旨は正直私にはまだ分からない。今のところ投稿したエッセイは全て載せて貰っているが、ちゃんとサイトの趣旨に沿えているのか不安にもなる。あまり赤裸々に自分の恥ずかしい部分なども書くことも出来ない。他のエッセイストの方々の文章をくまなくチェックしたり研究したりしているわけでもない。何がウケるとかウケないとか、そういうのもよく分からない。自分の文章も、物語性があるか否かくらいしか分からない。
書かなければ良かったと思うこともあるけれど、書くことで、投稿することで、気持ちがスッキリすることもある。
そう、私は書くことが好きだ。
そういう意味ではこの場所は有難い。
「文章を人目に晒す」というハードルをグッと下げてくれた。
誰が読んでるかも分からない、リアクションもさほどない、サイトの趣旨も完全に理解できていない私だけれど、たまたま発信できる場所を見つけたので、少しずつでも、気が向いた時に、書いてみようと思う。
負の感情にしっかり向き合っていきたい
自虐風自慢と奴隷の鎖自慢に怯えつつも、言語化するのが何よりのストレス解消法であることは事実だ。なんとか踏ん張って、放棄せずに、負の感情にしっかり向き合っていきたい。
言語を駆使できない私が文章を書くことへの罪悪感は、一生消えないと思う。
それでも、私を救うのは私しかいない。私は罪悪感に負けずに書く。誰かを救うためでなく、私は私の為に書く。
そして欲張るなら、どんな形であれ、生きている間は、書くことを辞めたくない。
ネガティヴな言葉にまみれた投稿欄は、必ずしも「掃き溜め」なんかじゃない。
支離滅裂な怒りも悲しみも愚痴も、全て立派な「表現」なのだから。全ては芸術の卵だ。
だから、どうか恐れずに、つらいことも悲しいことも吐き出して、言葉にして、発信して欲しいと思う。
私も、あなたも。