わたしは、去年からフェミニストだと自称するようになった。
その理由を一言でいうと、男と女の非対称性に嫌気がさしたからだ。女というだけで、評価の視線に晒されることに違和感を覚えたからだ。独占や支配が正当化される恋愛から逃れたいと思ったからだ。

わたしは昔から恋愛依存的なところがあり、かつ守られたいタイプだった。自分に自信がなかったから、強いものに庇護されたいと思っていた。「きみをずっと守るよ」なんて台詞、今はむずむずしてしまうけれど以前のわたしなら素直に喜んだと思う。それは、自分のことをまるで捨て猫みたいに思っていたから。野良としてひとりで生きていく力はない。誰かに拾ってもらわなきゃ明日の命はきっとない。だから傷つけられても、理不尽でも、守ってもらうには当然だと自分を納得させていた。
いやそれはちがう、と気付かせてくれたのはツイッターで出会ったフェミニストたちと、ヒラリークリントンの敗北演説だった。世の中には女の子に我慢を強いるような言葉で溢れている。それに我慢しなくていい。わたしはわたしの力をもっと信じてあげてもいい。

いつも見られる側。〈女〉を消費される20代の女の子

日本に生きる20代の女の子というだけで、「どこ目線だよ」という言葉でわたしの身体は男たちから評価され、消費される。
女の子はなぜかいつも見られる側で、男はなぜか見る側だ。
なんでかわいくないか、かわいいか、知らない奴の品評会に加えられなきゃいけないんだよ。
ひとりの人間という前に、女性性として点数をつけられなきゃいけないんだよ。

高校生の頃、恋人の友達は、知らないところでわたしにつけていたあだ名は、性的な意味を持つ隠語だった。その意味を知った時、わたしは愕然とした。わたしは恋人の友達を、恋人の友達としてしか認識してなかったのに。多分それがわたしの一番はじめの違和感だったと思う。

そういう視点で世の中をみると、おかしいことにたくさん気づく。なぜコスメの宣伝文句に「モテ」が多用されるのか。なぜ女の人にはメイクを「しなければいけない」風潮があるのに、男の人はそうでもないのか。そういう社会で生きていると、時々わたしは、わたしの身体が誰のものかわからなくなってしまう。

「ミソジニーがここまで根付いているんだ」と知ったセックスワーク

この社会の違和感にはっきりと気付いたのは、セックスワークをしてからだ。わたしは去年1年間、性的サービスをするお店で働いていた。当然ながら、わたしの身体は性的コンテンツになった。精神的なつながりというオブラートがなく、純粋な性的欲望から向けられる眼差しは想像以上に痛かった。そこでは、わたしは人格を持った〈わたし〉ではなく、女の身体をした動く人形Aだった。

「性的なことがらは表に出すべきものではない」という社会規範は、お客さん自身がお店を利用することに対する背徳感へと、またセックスワークの女の子たちを見下す目線につながっている。この仕事をしているというだけで馬鹿な女だと思われた。「こんなところで働くんじゃないよ」とお客さんに頼んでもないのに説教された。いやいやお金を落としてるのはあなたたちでしょうが。

仕事への差別だけでなく、労働環境も最悪だった。
お店で働く人たちは良くしてくれたけど、お客さんのマナーがとてつもなく悪かった。ルール違反が横行している。セックスワークでは女の子たちの体がいわば商品なのに、体に無許可でキスマークをつけられたこともある。嫌がっているのに無理矢理押さえつけて、違反行為をされたこともある。この業界じゃありふれすぎて問題にもならないけれど、普通に考えたら犯罪だ。
お客さんは匿名だからできること、女の子は匿名でいたいから問題にしないこと。

夜の仕事の匿名性はとても興味深かった。働く女の子たちは源氏名を使うし、お客さんも大抵本名を名乗らない。だから、本名を名乗る「普通」の生活ではきっと見せることのない場面をたくさん見ることができた。普段は人の目などを気にして抑圧しているけれど、それから解放された瞬間、言えないことが言えたりする。違う自分になれたりする。
そういう場所で見せる顔はきっとその人に脈々と流れる思想なんだろう。わたしがそこで見た顔は揃いも揃って男尊女卑、そしてミソジニーが色濃く出たものばかりだった。悲しかった。平成が終わり、令和になってもなお、男尊女卑的な思想はまだまだこんなに強いのか。ジェンダーギャップ指数が121位なのも納得できる。
皮肉なことにお店では無理矢理違反行為をしてくる人も、きっと職場では周りからの信頼が厚い良い上司だったりするんだろう。わかっている、何をされても所詮ただの客だ。わたしの人生に大きく関わる人じゃない。だけど気付かぬうちに、吐かれた心ない言葉や行為は消えてくれず積もっていく。そうして確実に、わたしの心を蝕んでいく。

男女には必ずミソジニーが?わたしは、一生恋愛ができない気がした

他にも絶望したことがたくさんあった。
当時の恋人が、セックスワークで働いたことを知ったとき、お客さんと全く同じ視線を向けてきたことが何よりも悲しかった。
人形Aとして扱ってもいいんだ、と彼の表情が変わった時のことがヒリヒリと思い出される。彼は違うと思いたかった。夜の世界で見たミソジニーは離れた世界の出来事ではなく、普通の恋愛関係にも潜んでいるのだと知った。それはトラウマとして残り、それ以降〈女〉として見られる視線が嫌になった。また男と女で、見る側と見られる側へと固定化された非対称さが気持ち悪いと思った。

だが、わたしはメイクすることをやめなかった。無理してヒールを履くのはやめたが、女の子らしい服装はやめなかった。未だに男の人と話していると「さすが!」「知らなかった!」「すごい!」が息を吐くように出てきてしまう。メイクや服装は半分自分のためとはいえ、やっぱりモテや男ウケから全然逃れられていない自分が気持ち悪くなる。わたしもわたしで、強くミソジニーを内面化している人間なのだ。

振り返ると、この恋愛だけでなく、今まで経験した恋愛にもミソジニーが強く潜んでいた。「守られたい」感情は、すなわちわたしの被支配欲で、ありがたがっていた「守ってくれる」恋人は大体支配欲の強い人たちだった。それはぴったり男尊女卑やミソジニーとリンクしている。そう思うと、これから先の恋愛にも悲観的な気持ちになった。これから先の恋愛もきっとそうなんだろう、男女の関係には必ずきっとミソジニーが潜んでいるんだろう。そう思うと、もう一生恋愛ができない気がした。それから好きな人ができたこともあったが、わたしは恋愛とは呼べなかった。自分のミソジニーと相手のミソジニーに気付くのが嫌で、それ以上関係を進める気にならなかったからである。

「もう一生恋愛できないかもしれない」と、付き合いの長い友人漏らすと、こう返された。彼女は、わたしのセックスワークの歴史をリアルタイムで知ってる人だ。
「それは、(あなたが)独占欲やミソジニーが強い恋愛しかしたことがないからじゃない?」

雷に撃たれたような衝撃だった。たしかに、そうかもしれない。世の中には人の数だけ関係性があって、恋愛だってそれは同じはずなのに。ミソジニーから完全に解き放たれることは無理だとしても、支配-被支配が今までよりずっと薄く、ミソジニーをそんなに意識しなくてもいい恋愛がこの世界のどこかにあるかもしれないのに。わたしは自分の経験からその可能性を閉ざしてしまっていたのだった。
フェミニストでありながら、恋愛もそれ以外も自分の可能性を諦めない。そうだ、ヒラリークリントンの敗北演説も確かにそうだった。わたしは、その友人に、世界のフェミニストたちに勇気をもらった気がした。