わたしはひとりっ子だから、「姉だから」「妹だから」と言える体験が何もない。
子どもの頃から、きょうだいがいることをうらやましいとも思わなかった。それは別に、親の愛情を一心に受けられるからではなくて、ひとりでいるのが当然だと感じていたからだ。

きょうだいがいるって「大変そう」と思っていた子ども時代

遊ぶのは、いつもひとりだった。
木登りをしたり、ひたすらぶらんこをこぎ続けていたり。おままごとは常に複数の役を演じ分け、オセロ・ゲームもひとりでする。

ひとりっ子の目には、きょうだいがいるのは大変そうに見えていた。
上のきょうだいがいる子は、お下がりで少しかすれた色の体操服を恥ずかしそうに来ていたし、下がいる子はみんなの前でお母さんに「お姉ちゃんなんだから」と怒られてもいたからだ。
そんな場面を目にすると、「ひとりでよかった」と感じたのだった。

まぶしく見えたきょうだいは、近所のKちゃんとYくん

だけど、きょうだいがまぶしく見えたことがある。
小学3年生のとき、近所にKちゃんという女の子が引っ越してきた。Kちゃんとはクラスも同じで、一緒に過ごすことが多かった。
Kちゃんには二つ下の弟がいた。Yくんという男の子で、Kちゃんの前だと元気なくせに、人前に出ると恥ずかしがって隠れてしまうような子だった。
Kちゃんのお家に遊びに行ったり、一緒に登下校したりするうちに、わたしはKちゃんと仲良くなり、Yくんとも打ち解けていった。

そんなある日、Kちゃんはわたしに、Yくんがなかよし学級で授業を受けているのだと話した。
なかよし学級は、発達障がいなどで普段の授業が合わない子のために設けられている教室だった。
今であれば「そうなんだ」となんでもないように言えるのに、当時のわたしは保守的で、違う存在には警戒を示してしまう子どもだった。Yくんはどういう理由でなかよし学級にいるのだろうと不安に思った。恥ずべきことだと思うけれど、わたしは表情に警戒の色を示してしまったのだろう。それをKちゃんは読み取ったようだった。

ひとりの女性として、わたしの憧れだったKちゃん

「Yはね、集中するのが少し苦手で、よくはしゃいじゃうの。だから国語と算数のときだけ、なかよし学級に行ってるんだ」
Yくんがなかよし学級に行っている理由を、Kちゃんは「集中するのが苦手」「はしゃぐ」という言葉で説明してくれた。

なかよし学級にいるということは、言ってしまえば「人と違う」ということだけど、それに引け目を感じずに、堂々と話せるのはすごいと思った。今ほど「人と違」ってもいいのだとは、世間的にも言われていなかったときだったからだ。
Kちゃんは何げない言葉だったかもしれない。けれどわたしにとってはすごく印象的で、大人になっても忘れられない言葉になった。今思えばあの経験が、障がいに対して偏見がなくなった、初めてのことだった。

さらに、友だち同士とは違う、特別な仲のよさがKちゃんとYくんにはあった。
YくんがふざけてKちゃんを叩いて、Kちゃんは怒るけど、次の瞬間にはふたりして笑っているような仲のよさだった。信頼というのがしっくりくるかもしれない。ふたりには、それがあった。
これがきょうだいなんだなあ、とふたりを見ていてわたしは考えていた。
知らなかったけど、きょうだいって、いいものなのかもしれない。そうも思えた。

その後、Kちゃんとは進路が別々になってしまって、連絡も途絶えてしまった。わたしは働き出して実家を出てしまったから、偶然町で会うこともない。
今どうしているのだろうと、その姿を思い出す。
凛としていて、強く、優しく、公平で、堂々としていたKちゃん。彼女はひとりの女性として、わたしの憧れだった。