「可愛いね。」今まで何度言われてきただろう。このエッセイを読んでくれる人に向けて、わたしが「可愛い」ことなんて証明出来ないけど、わたしは物心ついたときから、出会う人たちに綺麗な顔しているね、可愛いね、とずっと言われてきた。

わたしは「可愛い」。可愛い、らしい。
口に出すことは無かったが、いつも思っていた気がする。
中学生だったある日、隣のクラスの女の子に「あなたが楽しそうにしているのがむかつくんだよね」と言われた。それから男子に媚びを売っている、可愛いと言われて調子に乗ってる、と陰口を叩かれた。全くそんなつもりは無かったから気にしないようにしたかったけど、わたしは「可愛い」ことで嫌われているんだ、笑ったら人を不快にさせるんだ、不幸でなければいけないんだと思った。「可愛い」と言われたら喜んでしまうし、笑顔になってしまうから、わたしは自分のことを嫌いになろうとした。「可愛い」は嘘、わたしは醜い、と言い聞かせた。今まで「可愛いからいいじゃん」ってたくさん言われてきたから、わたしは「可愛い」ことを理由に恩恵は受けてきているはず。もう十分なはず。人を不快にさせないように生きなくてはと思った。

「可愛い」と言われたらその分、「醜い」と思うようにしていた。

でも、そもそも「可愛い」の恩恵ってなんだったんだろう?
「可愛い」から男の子に好かれた?
「可愛い」から優しくされた?
「可愛い」、から……わたしの価値ってなに?

『結局、世の中顔だよ』『美人は生まれた時から有利』そんな言葉を耳にする度に、わたしの事を言われている気がして、わたしを嫌いな人がたくさんいるんだと思った。そして同時に『美人って聞いて自分の事だと思うとか自意識過剰じゃん』『実際お前のレベルそれほどでもないから』って言われてる気がした。「可愛い」と言われたらその分、「わたしは醜い」と思うようにしていた。
実際、アイドルのように「可愛い」を武器にして仕事が出来るわけでもないし、仮に「可愛い」としてもわたしは中途半端だ、と勝手に僻んでいた。異性に交際を申し込まれた時、「嘘つかないでください」と言ってしまうくらいに、自己肯定感がどんどん下がっていった。自己肯定感の低いわたしじゃないと、嫌われると思っていた。「ネガティブだね」「人と距離を置くよね」という評価が歳を重ねるにつれ付随するようになった。

「可愛い」以外の評価が欲しかった。すると、いろんなことが起きた

自分を嫌いになってから、人を信じられなくなって、辛かった。既に高校生になっていたわたしは、低い自己肯定感を武器に生きるしかないと思った。正しくは思い込んだ。そして、部活、勉強、サークル、という学校生活を、真面目に、目立たない程度に、きちんと、取り組んでみた。
「可愛い」以外の評価が欲しかった。そしたら、普通の生活の中で、いろんなことが起きた。

先生からは作文を沢山褒めて貰えた。でも遅刻が多くて注意された。素敵な友達が出来たのに、失うのが怖くなって自ら距離を置いたら、勝手なことをしないでと怒られた。わたしはごめんと言いながら友達の優しさに感動して泣いた。文化祭の準備では、ああでもないこうでもないとクラスメイトと議論して、喧嘩もした。でもそうやってひとつの物を作り上げて優勝してみんなと喜びあった。初めて心から好きだと思えた人が恋人になって、恋愛の甘さに溺れたけど、すれ違いの末に自然消滅してしまった。

可愛いの恩恵なんて、どうでもいい。わたしはわたしなんだから

たくさん、生活してきた。ただただ生きるうちに、いつの間にか、人からの「可愛い」を当てにしないようになってきた。そして、「可愛いから許されること」なんて、まともな人間関係では発生しないことも知った。今思えば、あの頃わたしが嫌われた理由は、別に「可愛いから」ではなくて、単純に嫌なヤツだったのかもしれない。

今のわたしは、結構、それなりに、イイヤツに成長した気がする。ただの生活が、わたしを優しく変えてくれた。そもそも、理由はなんにしろ不幸でなければいけない人間がいるわけがない。ましてや「可愛い」からなんだ。わたしが可愛かろうが、笑っていようが、泣いていようが、他人には大して影響はないはずだ。可愛いの恩恵なんてどうでもいい。わたしは笑いたい時に笑っていい。当たり前だけど、わたしはわたしで、わたし以上でも、わたし以下でもない。今日も生きたし、明日も生きる。
わたしは可愛い。可愛い、らしい。それがなんだ。ただそれだけだ。