顔が左右非対称なこと、顔が大きいこと、歯並びのせいで人前でうまく笑えないこと、痩せていないこと。幼少期から抱いてきたこれらのコンプレックスがずっと嫌で嫌でたまらなかった。気づけば一日に何十回も鏡を見ることが当たり前になっていたし、少しでもマシに見える写真をSNSに載せて、自分で自分を落ち着かせていた。

外見のことを四六時中気にしてしまう。もちろんダイエットにも挑戦した。体が痩せても、骨格や歯並びなど消えないコンプレックスがあることに気づいてしまって、それらがよりわたしを劣等感に陥らせた。

美しさのレンジは広いことに気づいた

ある時、SNS上でステータスを得ることに囚われている人を見ると、呆れてしまっている自分がいることに気づいた。外見しか見えないSNSでフォロワーを集め、そのフォロワーがその人の言動を神聖化する状況に薄っぺらさを感じたのと同時に、外見を評価されている人たちが羨ましくて仕方がなかったのだと思う。こんな自分の方がもっと浅はかだ。それに気づいてからというもの「美しさってなんだろう」と考えるようになった。

「美しい」をスーパー大辞林で調べてみると「心打たれる」と出てきた。人間が姿かたちを見て美しいと思うのに疑問を持つこと自体愚問だったのか。だって心打つのだからそれ以上説明しようがない。外見は美しさの一つであるし、かといって美しさの評価対象をまるっきり外見に向けるのも違う。先天的なものへのコンプレックスを抱きすぎる必要なんてないじゃん!と初めて思えた。外見への過剰な執着心を消せた気がしてとても嬉しかった。

美しさのレンジが広いことに気づけてから、自分のことも他人のこともより客観的に見ることができるようになり、さまざまな気づきを得られた。ねじ曲がった考えを持っていた頃は、外見を磨くことに疲れきって、美しくなろうとしていた自分を認められずにいた。でも、今はそんな自分にとっても、誰かにとっても、美しくなりたいという気持ちの方が大切で美しいよ、と自信を持って言える。

偏った美しさに囚われないように

これから先も、わたしのコンプレックスが消えることはないだろう。でも、前より外見のことで気をもむ回数は少なくなった。心打たれるものにも様々な種類があるから、一つなにかが欠けていたって美しさの努力の矛先がなくなるわけではない。

SNS上で簡易的に色々なものを評価できてしまうこの時代では外見にコンプレックスを抱きがちだけど、人間の承認欲求を満たすツールは他にもあるし、美しさの本質を見抜いた先にはもっと広い世界があると思っている。だからこそ、自分の外見も今まで通り磨き続けたいし、かといってコンプレックスを気にしすぎることもない。内側から滲み出る美しさをもっと見つけていきたいな。