たぶん人には感情を決めるメーターみたいなものがあって、あるメーターを振り切れば人は目を吊り上げて鬼のように怒るし、またあるメーターを振り切れば目頭がジワジワ熱くなって涙が溢れてくる。またあるメーターを振り切ればおかしくっておかしくって身体が勝手に踊りだすし、笑いが止まらなくなる。人には数えきれない数の感情メーターのようなものがあって、日々メーターの数値によって泣いたり怒ったり笑ったりする。そうして友達と楽しんだり、恋人と喧嘩したり、仕事がうまくいかなくて泣いたりする。

できれば毎日笑って楽しい人生を過ごしたいけど。うまくはいかなくて

毎日は思い通りにいかなくて、楽しいことばかりではない。同じ時を過ごす人とは楽しいことだけ共有していたい。できれば毎日笑って楽しい人生を過ごしたいけど、まあ、そううまくはいかないよね。ご存知の通り。

ある日仕事でうまくいかなかった。コミュニケーションをうまく取れなくて、自分が担当するはずだった仕事が他の人によって終えられていた。自分がやらなくてはと意気込んで、ヘトヘトになってまで仕上げた後に気づいた。どうして早く教えてくれなかったんだろうとモヤモヤしたけど、私が普段締め切りギリギリになるまで仕事を終えられないから気を使ってくださったんだろうなと考えてモヤモヤをそっと消した。

ある日恋人の行動が気に入らなかった。私に内緒で女の子を含む数人で旅行へ行った。私はその場に知らない女の子がいたことよりも、内緒にされたことがとても悲しかった。でもこんなことで怒ってしまってはヒステリックメンヘラ女もいいところだろうし、自分に余裕がないみたいで嫌だった。ゆっくり溢れてくる涙を知らんふりしてベッドの中でひとり目を瞑った。

ある日友達と電話で話した。彼女は自分の気持ちに正直なので、幸せなことは躊躇いなく共有してくれるし、おかしいと思ったことはちゃんと批判できる。友達との電話はだいたいが時間を忘れるほど楽しい。これは嘘じゃない。でも、彼女の怒りや悲しみの矛先が、どうしても共感できないものに向いたとき、私は身動きが取れず、時が止まってしまったように感じる。それでも苦しんでいる彼女に共感したくて、私が同じ意見を持つことで彼女の気持ちが楽になるならと「そうだね」と力ない声で私は彼女に同意する。

本当の感情を押し込める私。「楽しい」感情が分からなくなった

私には価値観の違いを擦り合わせるということがすごく難しく感じる。私はだいたい、その場がとりあえず収まればいいや、一悶着なんてめんどくさい、といって自分の本当の感情をいつも小さいゴミ箱みたいなものにギュウギュウに押し込める。だから大人だね、とかどうしてそんなに冷静なのと言われることも少なくなかった。私もそんな自分が嫌いではなかったし、私の周りの人が傷つかないのならそれでいいやと思っていた。

そんなある日、最近何か楽しいことあった?と聞かれた。咄嗟には答えられず、カメラロールや自分の手帳を見返した。写真も予定もたくさんあるはずなのに、どれが楽しかったのか全くわからなかった。そして今の私が何に楽しいと感じているのか、私はスマホの画面を見つめたままとうとう答えを出すことができなかった。怒りや悲しみを堪えられる数少ない人である私は、誰にでもあるはずの楽しいという感情が分からなくなってしまったのだ。

私は自分の感情のメーターをずうっと見ないふりして、自分の心に嘘をついていた。まあいいやと自分の気持ちを小さなゴミ箱に捨て続けてしまったので、ゴミ箱からはゴミになる必要なんてなかった、本当は私にとって大切だったものが溢れてしまったようだ。あとから気が付いたが、どうやら失ってしまったのは楽しいという感情だけではなかったらしい。嫌だと感じても、嫌と感じるべきなのかどうか考えてしまう。モヤモヤする感情があっても、怒っていいのかどうかわからない。涙が溢れてきても何がどう悲しかったのかうまく説明できない。私の感情メーターはほとんど壊れてしまっていた。

人に嫌われるのが怖いとか、自分のそばから誰かが離れて行くのが嫌だとか、泣いたり怒ったりする自分をみていたくないだとか、そんな見栄や恐れで、自分の一部になるはずだった小さな私をたくさん死なせてしまった。

ちゃんと笑えるように、ちゃんと怒れるようになりたい

私はちゃんと笑えるようになりたい。今の笑うところだった?と言われてもいい。だって私は面白いおかしいと思ったのだから。

私はちゃんと怒れるようになりたい。おかしいと思ったことは目の前の相手とちゃんと話し合いたい。それがめんどくさいと思われるのならこっちからこんな関係お断りよ、と言える強さが欲しい。

私はちゃんと悲しめるようになりたい。悲しみだけはどうしても説明できないこともあるだろうけど、今の自分から抜け出すためには1番大切な感情だと思うから。

私は人として成長したい。失うことを恐れるのではなく、それが私の価値観で私の考え方だからと、私の一部になるであろうこれから生まれる小さな私になるべく嘘をつかず、私は、私でありたい。