自分のことを大切にできていないのに、誰かのことを大切にはできないんだ。というような言葉をたびたび耳にする。それだとしたら、「大切」にするとは、なんだっただろうか。そんなことにさえ悩んでしまうわたしは、自分の未熟さが情けない。それなのに、メールやラインの末尾で、「ご自愛ください」という言葉をたびたび使用してしまう。使わずにはいられないのだ。

「しあわせ」を感じることのできる生活を送らせてもらえているのは、大人の方々が、命の絵の具で世界をデザインしてきてくださったからだ。わたしたちの生活を成り立たせてくれているもの、衣食住はもちろんのこと、学ぶことや遊ぶこと、そんなふうにくくることができないこと、そしてそれらの細部に渡るまで。目を澄ませてみれば、たくさんの命の軌跡に想いを馳せることができる。しかし、そのような「豊かな社会」は、「生活をすることに精一杯で、しあわせかどうかなんて考えることはできないよ。」と笑いながら、あきらかに健康を害するような労働環境で働かれていらっしゃる方々が支えてくださっている。アルバイトをさせてもらうようになってから、そのようなことを身に沁みて感じるようになった。

私が考える「大切にすること」

わたしは現在3つのアルバイトをさせていただいているのだが、正直なところ、「仕事をすることが大変ではない」と言えばウソになる。陰で涙を流されていた社員さんの力になることもできず、人のために働いていていたつもりが、働くことのベクトルがどこに向いているのか分からなくなってしまうこともある。そんな葛藤に絡めとられて、バイト中に喉が詰まるような感覚に陥ってしまうことも一度や二度ではない。

これでいいのかと、自分を責め続けて眠れなくなる夜と鉢合わせることが格段に増えて、緊張のあまり朝3時に起きてひたすら文章を綴りづづけてからではないと出かけられない時もある。それでも、正社員の方々に比べれば、比べるものではないかもしれないけれど、わたしの大変さなど片手でありあまるものなのかもしれないほどで、そんな正社員さんの方々のおかげでこの世界は成り立っている。その裏には、どれだけの涙と汗とやりきれない喪失があっただろうか。タイムカードを二人で押しに行ったあと、ちょっと用事があるから先に帰っていてと笑ってくれた彼女が、遅くまで事務の仕事をしていることは皆が知っている。呼応しながら広がっている「しょうがないのよ。」のため息が、やさしい彼女たちを傷つけているように見えて、哀しくて仕方がなくなる時がある。彼女たちの、優しさと憂いとあきらめが漂う瞳に、わたしは守られてきたのだと、傲慢な自分が消えてしまいたいほど情けなくなる時がある。

けれど、アルバイトのわたしが事務作業に関わらせてもらうことは、団体の方針上不可能に近いし、他の方にもそれぞれの事情がある。でも。深澤義旻さんが仰っていた、「自分を大切にすることが、同時に、人を大切にする生き方を、」仕組みを、根付かせることができるように、そのうえでみんなの笑顔が咲くように。「しょうがなくない。」と。そんな種を心に蒔きたい。

一人ひとりの方が、ご自身の心のコンパスと、地図と、輪郭と、物語と、湧き出る何かを尊重できること。そのことが、だれかを尊重していくこととつながること。それが、駆け出しの大人のわたしが考える「大切にすること」。でも、簡単ではないことは、痛いほどにわかる。そして、一方通行のラリーでないことも。

わたしが願うことは

だから、お話をさせてほしい。本当はどうされたいのか、「しょうがなくない。」としたら、どんな日々を過ごされたいのか。彼女が心から望む日々を過ごしてくれるのであれば、一緒に働かせてもらってきた、たくさん彼女に守ってもらってきた、しあわせをいただいてきたわたしたちにとって、そんなに嬉しいことはないのに。

こんな未熟者なわたしが、そのような大切なことについてお話をさせてもらいたいだなんて、身に余る願いなのかもしれないけれど、それでも、お話をさせてほしいと願ってしまう。「大切なこと」、「大切にされたいこと」、「描きたい未来」。そんな、多様な音色や色彩や言葉の物語が溢れ出す場所が、記憶のなかにぽつりとあって。女で一人で無農薬のお米をつくり続けられている秋田のおかあさんと過ごさせていただいた時、日にちでいえば、ほんの3日程度のあの時間は、わたしにとっては永遠で。そんな場所をふるさとと呼ぶのかもしれない、なんて考えて。目を凝らして、振り返ってみれば、ぽつり、ぽつりと、ちいさな、ふるさとが、お母さんの涙と、噛み締めた唇から滲む真赤な哀しみとともに。「ふるさと」の景色がやさしいものであってほしいと、願う、そしてそんなふるさとを「大切」にしていくために働きたい。

あなたの心からの笑顔でいてほしい、なんて願うのはわがままなのかもしれない。できることが少なすぎる自分が情けないのだけれど。それでもやっぱり願ってしまう。お身体と、お心を、大切にされてください。ご自愛されてください。わたしは全く急いでないです。待つ時間も好きなくらいです。わたしのために急ぐのは、わたしだけで十分です。「待たせないこと」を信条とされているように。ほとんど睡眠も取らずに夜遅くまで仕事をされて、哀しいことがあったとどんなに泣いていたとしても、傷ついたことがあったとどんなに怒っていたとしても、翌朝には会社に向かう。ばりばりと働く母と父の傷と止まることなく流れる血を知っているからだろうか。やっぱり、「しょうがなくない。」。その言葉を紡ぐ勇気がわたしには必要な気がするんだ。大きなお世話かもしれないけれど、できることがわからなすぎるけれど、それでも、でめてもできることを。種をまき続けることと、お話をさせてもらうこと、そして「ふるさと」を信じることを、せめて、せめて、続けていきたいと、こっそり、誓ってしまう、自分が少しだけ恥ずかしい。そんな「誓い」をいつの日かどなたかと共有させてもらえたのなら、そんな希望を淡く力なく、抱いて。