小学生の頃、ある男の子から約一年間"金玉"と呼ばれていた。私の下半身にそれがついていたわけではなくて、私の名字に"玉"がついているからである。

その男の子は私の後ろをついて回り、いつも笑いながらそれを口にした。やめてとお願いしたらより一層楽しそうに呼んだ。何が面白くて笑っているのかよくわからなかった。実にくだらない。くだらなすぎて母にも相談できなかった。最初一緒になって笑っていた他の男の子達は、一か月もしたら飽きてきたようだった。女の子達は心配そうに私を見ていたが、自分自身の名前に"玉"が入っていなくて心底安心したようだった。

突然告げられた「好きです」。私のことが嫌いじゃなかったの?

結局、その男の子とクラスが離れるまで一年間、私は毎日"金玉"だった。そしてクラス替えの前日、その男の子は初めて私の正しい名前を呼んで、私の事を好きだと言った。視界がどろどろに溶けるような感覚。どうせなら最後まで下品な名前で呼び続けて欲しかった。

消しゴムのカスを私の肩に乗せてくる男の子。私の肌荒れを近距離で指摘する男の子。授業中、ずっと私の腕をボールペンで指してくる男の子もいた。どの男の子も、私が心底その子の事を嫌いになった頃、私の事が好きだから意地悪をしたのだと言った。

好きなら意地悪も仕方ない。その間違いに誰も気付いてくれなかった

意味がよくわからなかった。世の中の男の子たちの頭の中には「好き=意地悪」の規則でもあるのだろうか。好き=大切にしたい、は私だけなのだろうか。私はそれからというもの、男の子の愛情表現が恐ろしくなってしまった。いや、愛情表現とは呼びたくない。過度な自己表現、とでも言おうか。

普通に考えて、人の事を金玉と呼ぶべきではないし、消しゴムのカスは汚いものだし、ボールペンで腕を指すと痛い。そんなこともわからなくなって冷静さを失うほど私にお熱だったのか、と今は思うようにしているが、一番そのころ悲しかったのは周りの対応だった。笑うか心配そうに見守るか、男の子だから仕方ない、とされるか。誰もおかしいことだと声を大にして守ってはくれなかった。男の子は好きな女の子に意地悪するものだから仕方ない、の風習に飲み込まれていく自分が嫌だった。

子供は残酷なことを言いやすい。デブとかブスとかを平気で言う。言われた方は深い傷を負う。けれどそういうのって道徳の教科書できちんと、駄目なこと、とされているし周囲の人が叱ってくれる場合が多くて、言う方も悪いことをしているという自覚がある場合が多いのではないだろうか。ここに恋愛要素が含まれてくると一気に、仕方ない、と周囲から許容されるのは何故?愛のある"金玉"か愛のない"金玉"かっていう話?

今も受け継がれる「好き=意地悪」の方程式。そろそろやめにして

たまに今でも見る。女の子を意地悪をする男の子。「やめてよ!」と嫌な顔をする女の子。それを見てニヤニヤと嬉しそうにする男の子。きっと彼は女の子の事が好きなんだろう。そして誰もそれを咎めない空間。

その風習、そろそろやめにしませんか。