昔付き合っていた人に性的な誘いを受けて、「正直あんまりしたくない」と言ったら、結構なお話し合いになってしまった。
「どうしてしたくないの?」という質問に、「心の準備が必要で」とか「前日とかに体のメンテナンスしないといけないのがめんどう」とか、色々説明をしたのだけれど、どれも向こうにはピンと来ず、何なら私もあんまりピンと来なくて、大いなる違和感と共にその場は終わった。とりあえず相手は私が「したくない」ことを理解したようだし、その場では私の意見が通ったように思えた。

「なんで、こんなに、みんな、したいの!!!?」

その後も私は「どうしてしたくないんだろう?」と結構真剣に悩んだ。世の中のセックスレスに悩む夫婦のマンガやら、「夜も愛され女子になれるのカナ?」的な特集を見ながら、私は日々叫びたかった。
「なんで、こんなに、みんな、したいのーーーーー!!!?」

とはいえ、私の周りの人間にはどちらかというと「したくない」側の人間が多く、何なら「したい」と思うこと自体恥である、みたいな価値観をぎゅっと内面化してしまっている人が多い。…が、私はそうではない。別に性に開けっぴろげ最高やん、自由に生きてる感あるやん、と思うのに、私自身の自発的な性欲は凪も凪。どこ吹く風である。何というか「そんなにしたくないなぁ」と「まぁ、してもいいけど…」くらいの間をゆるゆると漂っている、みたいなイメージである。

どれも、一要素でもあるが決定的ではない、みたいな感じ

なんでなんだろう、と結構真剣に悩んだ私は(理由の体系的な説明ができなかったのが悔しかったらしい)、①性規範の内面化(性にオープンであることは恥ずかしい的な)②性体験におけるトラウマによる価値観の歪み③性的嗜好/志向(アセクシャルとかデミセクシャルとか)に絞って考えてみた。
ここで全部説明するのは面倒なので、私がどれだけ頭でっかちに論を立てようとしていたかだけ見てほしい。結論から言うと、どれもこれもいまいちだった。やっぱりピンと来ないのである。どれも、一要素でもあるが決定的ではない、みたいな感じだった。

まだピンと来ていないタイミングで、同じくまだピンと来ていない交際相手から再び問われた。「何でしたくないのか、って説明できたりする?」と。
困惑した私は、一番納得してもらえそうな②で説明してみた。
相手は納得し、ひどく同情し、一緒に傷ついてくれた。のではあるが。
言い知れない、「コレジャナイ」感と「トラウマを利用している」感、そして絶対に伝わらない、という圧倒的な徒労感に襲われた。言い知れてるやんけ。
もうちょっと相手を傷つける言い方を選ぶなら、「したい」気持ちより「何かめんどい」気持ちが勝つから、という説明も可能ではあったのだが、相手を傷つける上に「結局何がめんどいのか」が自分でもよくわからない状態でそんなこと言っていいのか?という気持ちになって結局言えなかった。

したくないのに理由なんてない

そんな思いがぐるぐると体中をめぐって、思わず私は聞いてしまったのだ。
「何でしたいの?」と。
そんな私の純粋な疑問に、彼が答えられるはずはなかった。なぜなら「性欲」は三大欲求の一つで、「みんなが持っているのが当たり前」のものだから。

その時思った。
「え、何で説明しなきゃいけないの?」と。
ある側はある理由を説明しなくてよくて、ない側は説明しなきゃならんってそれなんて理不尽。あなたにとって性欲が「ある」ことが当たり前で「したくない」ことが不思議であるように、私にとっては性欲が「ない」ことが当たり前で、「したい」ことが不思議なのだ。

したくないのに理由なんてない。したくない!それで十分じゃないか。めっちゃしたい!人たちが、めっちゃしたい!と言いながら自由に生きるのに対して、私は「別にしたくない!」と言いながら自由に生きるのだ。「別にしたくない!」と言う私の自由に、「理由」なんてもので侵犯しないでほしいのだ。
これだって私の選ぶ私の「生き方」だ。異論は認める。