NOと言うべきだったのに言わなかったこと、言えなかったことが社会人になってからすでに2回ある。
きっとあの2回以外にも本当はNOというべきだった場面は何度もあったんだろう。
多分私が気づかなかっただけ。
いつのまに私は違和感を見て見ぬふりできるようになってしまったんだろう。

笑って流すことを習得。日本社会の日常の中で鈍感になっていく自分

アメリカから帰国して約3年。日本で働き始めて2年。日本社会に揉まれていると、女らしさを求められることに慣れ、自分の女子力のなさを卑下することが当たり前にできるようになる。とりあえず笑って流すは自分を守るために習得した特技と言えると思う。

周囲の働いている友人の話を聞く限り、私の職場は他の日系企業に比べてもかなり働きやすく理解のある職場だと感じている。それでもやはり大手日系企業特有の文化は残っているので、敏感な人がきいたらパワハラ・セクハラ認定されるであろう発言はあると言えるだろう。

NOというべきだったんだと気づいた1回目の出来事は前回かがみよかがみで自分の自己肯定感の高さについて書かせてもらった「自分は可愛いって思えるスマホの待ち受けは…」でのこと。ここで書いた、会社に可愛い新人が入ってきた話について編集部の方から「そもそもこれセクハラじゃないですか?」というコメントをいただいた。そっか、これもセクハラ認定されるレベルなのかというのが正直な感想だった。
私にとってはその発言がセクハラに値するかよりも、仕事がスムーズに進むかということと会社の人たちと良好な関係を維持することが大事になっているんだなと気づいた。そんな日常が当たり前でいると、たまに所謂フェミニストの友人たちと話していると自分がものすごく鈍感になったことに気づく。
でももしこの会話をその可愛い新人が聞いていたら。あるいは女性の先輩社員が聞いていたら。誰かが不快な思いをしていたかもしれない。であれば、私はNOと言うべきだった。

ノーメイクと肌荒れを指摘された友達。代わりにNOと言えなかった

最近NOと言えなかったのは友達が男友達にノーメイクだったこと、肌が荒れていることを指摘された時。私もその場に一緒にいて、私自身もノーメイクだった。私はいつも通り笑って若干開き直ってその発言を受け流したし、友人だって笑って受け流していると思っていた。そしてその男友達はきっと冗談の延長戦の気分で言っていたと思うし、それを言っても大丈夫という関係性が私たちの間ですでに築かれていたと思っていたんだと思う。でも翌日彼女は体調が悪いといってお休みをしていて、後日彼女がこのことを気にして休んでいたことを知った。

私はニキビできているよって会社の先輩に言われたときも、気にしていたことを指摘されてグサッと気持ち的にはなったけど笑いながら「ストレスですかね~」って言って流せてしまう人だった。
でも彼女はそうじゃなかったし、きっとそうじゃない女子は日本にたくさんいる。
どうして彼女の代わりにNOと言ってあげられなかったんだろう。私ならきっと言えたのに、と思った。

決意した。NOと言いにくい人の為にNOと言える人でありたい

その人がセクハラ・パワハラと感じたらそれはセクハラ・パワハラ。でもそれは決して言われている人だけじゃなくてそれを聞いている周りにいる人が不快に感じている場合があることも忘れてはいけないと思う。
自分の為に言うNOも大事だけど、周囲の人・自分にとって大切な人の為にもNOと言える人になりたい。NOと言いにくい人の為にNOと代わりに言える人でありたい。

と決意したことを、忘れないように自分へのリマインダーとして書いておくことにした。