同窓会に行かなかった。いや、行けなかった。

わたしたちは22歳。高校卒業から、浪人も留年もせずに進学したなら大学卒業を控えた年。ゆえに、みんなが働き始めてバラバラになってしまう前にもう一度会おうということで、同窓会が開催された。

自分で決めた人生に後悔はない。肯定はできている

わたしは昨年留学をしたので、その分卒業を延ばしもう1年大学に通う。その後も、散々迷ったけれど修士課程に進むつもりだ。働いてお金を稼ぎたい気持ちも、憧れている会社もあるけれど、それでも自分の知への好奇心を無視することは、自身を蔑ろにするような気がしてできなかった。語学力やアカデミックな知識を、働きながら保っていられる自信もないから、学部の後はそのまま進学しようと現時点では考えている。

選択の積み重ねとして存在する自分のいまの人生に、後悔はない。いまの大学を選んだことも、留学をさせてもらえたことも、納得できる卒論を書くために一年延ばすことも、すべて自分で決めたことだし、わたしはこの選択の過程で幾人ものかけがえのない人々に巡り逢えた。これから院に行くであろうことも、わたしにとっては100%の選択になるだろうと確信を持っている。

けれど、「正しく」生きる旧友たちを前にした自分を思い浮かべたら…

それでも。それでもその肯定を、留年も院進もせず「正しく」生きる旧友たちの前で崩さないでいられる自信はなかった。「どういう系に勤めるの?」と、就職を前提にした会話を振られて「院進志望でね…」と説明する、「就職できないって聞くけどどうするの?」と尋ねられる、その会話を繰り返すことを想像しただけで心がすり減った。みんなが会社名を披露し合う隅で、何も言わずひたすらに食べ物を口に運ぶ自分を思い浮かべたら、ひどく惨めに思えた。

だから行かなかった。せっかくの輝かしい再会の場で、心を醜く歪めて鬼になる自分を見たくなかった。

実際に同窓会に行った友人は後からわたしに、そうでもなかったよ、と言った。みんな自分の会社名を披露し合うことなんてなかったよ、と。でもきっとわたしは、その場にいたらきっと、後ろめたいような気持ちになっていたと思う。きっと、その場に立っていただけで。

そういえば、二年前の成人式の同窓会のときも、何人かの友人は行きたくない、と話していたっけ。彼女たちはそれぞれに理由も抱えていたけれど、そのときは、その説明を聞いてもなんで?別に良くない?と無邪気に疑問を抱いたし、あまつさえその疑問を正直に投げかけることもあった。今ならよくわかる、それがどれほど暴力的な問いであったのか。

自分が「正しくない」道を歩んでいるように感じられてしまう状態で、「正しく」華々しい生き方をしている旧友たちと再会するのは、こんなにも心苦しい。スポットライトが一人だけ当たっていない舞台に立たされているみたいだ。気にしなきゃいいじゃん、と思う方もいるだろう。そんなことは頭ではわかっている、けれど、心がどうにも追いつかないのだ。

私を蝕む、「生き方」の同調圧力。私は他人の生き方を肯定する

誰かの定めた「『正しく』生きる」という目標は、内面化されてわたしの心の一番奥深いところに根付いていて、不安に襲われた夜に容赦なくわたしを蝕んでゆく。わたしはやっぱり、「生き方」にまつわる同調圧力は、現代社会にあまねく広がっているように思えてしまう。

だって実際に、そこそこの進学校に通っていた高校生のときに、大学に行かない選択をした子はいなかった。なんなら「就職しやすいから」という理由で大学を選んだ子たちもたくさんいて、みんな「高校→いい大学→いい企業」というルートを、高校生の時点で歩むべきものとして飲み込んで、実際にその道を歩んでいるように見えた。
本当はみんな自分の意思があって進路を選んでいて、「正しさ」なんて言葉で回収してしまうのは、失礼だとわかっているのだけど、それでも歩みたい道が「正しさ」に沿っているのは、やっぱりちょっと羨ましい。

自分の中の「正しい道」という神話を今すぐ解体する、もちろんそんなことは不可能だ。それでもわたしにできる唯一のこと、それは、自分だけは自分の人生にきちんと色を与えてあげること。できることを一つずつ積み上げて、たくさんのことに挑戦して、少しずつ自信を重ね、自分の人生を彩ること。そして他人の人生にも、あなたの人生は素晴らしいのだと伝え続けること。それがどんなに「正しく」ないと思えてしまう生き方であっても。

「正しく」ない生き方を許せなくなるのは、大抵いつだって自分自身だ。そう知っているからこそ、わたしは他人の「正しく」ない生き方を相手に聞こえる声で肯定し続けていたい。そしてその果てに、同窓会で逢えなかった旧友たちと、再び巡り逢えたらいいなと思う。