授業開始まであと2分。やばい遅刻だ、そう慌てながら廊下を走り抜け、息を切らしながら教室に駆け込む。その教室の机は三人掛け。仲のいい女子の友人たちはちょうど三人で座ってしまっていて、通路を挟んで空いていた机にはクラスの男子が2人。座るならそこしかない、けれど、男子に分類されるみたいでなんだか嫌だなぁ。そう思ったわたしは「えー、ここじゃわたしも男子みたいじゃん」と笑い、そんなわたしの顔を見て、ある男の子はニヤニヤと口元を歪めながら言った。「だって、お前男じゃん(笑)」
大学1、2年時に、「(言動が)女の子らしくないよね」と言われることが多かった。その後に流れるように続くのは「そんなんだから彼氏できないんだよ」「あの子はお前と違って女子力あるよな」「黙ってればモテるのに」といった類の、実用的なアドバイスの数々。笑いの中心になったり、なんでも話したり、何か意見を述べたりする、わたしのそういう側面は「女の子らしく」ないがゆえに、咎められてしまったようである。外見は「女の子らし」かった上に、比較的親しみやすい性格をしていたがゆえに、尚更指摘されやすかったのだと思う。
女の子らしくなれるよう努めるも...
今思うと、そんなの気にすんな、と昔の自分を抱きしめてあげたい。こういった暴力的な言葉の矢は、言った側は放っておしまいかもしれないけれど、言われた側はきちんと傷つくし、それらの言葉は呪いとしてたやすく根付いてしまう。それに、まだ未熟だった当時のわたしにとっては、入ったばかりの大学が世界のすべてで、周囲の人々の発言はすべて真実だった。世の中においては、女子が「女の子らしく」できないことは致命的な欠陥だから、わたしは早急に生まれ変わらなければならないのだと、自分を憎み、「女の子らしく」なれるよう努め続けた。その努力が100%結晶となって実ったわけではなくて、結果的にますます自分を嫌いになっておしまいだったのだけれど。
海外で得た「ありのままで良い」という気付き
そんなわたしの呪いを解いてくれたのは、一昨年から昨年にかけて留学した、スイスでめぐり逢った友人たちの存在だった。そこで仲良くなった子たちは、わたしに対して絶対に、「女の子らしさ」を押し付けなかった。褒めるときはいつだって、「あなたらしいね」「似合ってるね」と言ってくれたし、みんな議論が好きで、夜中に誰かの部屋でchillしたときは、だいたい話題は環境問題やジェンダー問題へと流れゆき、わたしはいつもオリジナルの意見を求められた。
ある男の子の友達に「どうしてあなたは頭の悪い振りをするの?いつもわかんないって返すけど、本当はわかってるんだよね?日本では女の子は頭が良くないほうが好まれるって、本当なんだね」と真正面から尋ねられたことすらあったっけ。街中の人々が集うフェミニズムのデモの、渋谷ハロウィン並みの群衆の中を、歓声を上げながらみんなで練り歩いたのも楽しかったな。
わたしに「女の子らしくないとダメだよ」と啓蒙した人たちはきっと、わたしの呪いが王子様によって解かれ、カエルがお姫様へと変化する、そんな日を心待ちにしていたのだろう。彼らには申し訳ないが、自分の人生のシナリオくらい、自分で決める。わたしの呪いはめぐり逢った大切な友人たちによって解かれ、カエルのままで自分を大切に生きられるようになったのだ。カエルを好きだと言ってくれる人たちに囲まれて。
その境地までたどり着けた今となっては、あのとき、「『女の子らしさ』とか古いよね」とか、「そういう発言失礼だよ」とか、言い返せれば良かったと悔やむ。わたしにそう言った人たちは、今も別の女の子に同様の発言を繰り返しているのかもしれないと思うと怖い。彼女たちは昔のわたしと同じように悩み苦しんでいるかもしれない。
「女の子らしさ」を捨てて
だからせめてもと、祈るような気持ちでこのエッセイを綴っている。きっとわたしにあんな言葉を放った人たちはこのエッセイなんて読まないだろう、けれど、わたしと同じように「女の子らしさ」を押し付けられて否定され、言い返せずに傷ついている女の子に、このエッセイが届くかもしれないならば。そうしたら、あなたは何も悪くないんだよと伝えたい。
わたしが言ったところで気休めにしかならないかもしれないけれど、それでもわたしは内面的「女の子らしさ」を捨てた今、意見を述べたり、目標に向かって突き進んだり、面白いことを怒涛の勢いで喋ったり、そういった日々が輝いていてとても楽しい。注記しておくと、これは、好きで「女の子らしい」言動をする人を批判しているのではなくて、とにかくどんな女の子も、その子らしく好きに生きて何も言われないような、そんな社会が来たらいいなと心から願っている。それだけの、至極単純な祈りなのだ。