私は、女性として生まれた。
周りの人間は私に「女性」として接してきたし、私も「女性」として振る舞っていた。
子供の頃は、そうすることに違和感はなかったし、スカートを履いたり、可愛い小物を集めたりといった、「女性」らしいことをして楽しむこともあった。

「女性」として性を表現することに違和感を覚えるようになった

だが最近になって、自分の性別を「女性」として表わすことに違和感を覚えるようになった。
これは私の感覚なのだが、「女性」という言葉の裏には、女性ならこうあるべきという条件が、前提としてあるような気がするのだ。たとえば、「化粧や、お洒落をする」ことだったり、「上品」「家庭的」というようなものだ。
「女性」と表されることでそういった社会から与えられた女性のイメージが自分の義務になるような気がして、自分を「女性」と表すことに、抵抗があるのだ。

私は生物的には女性だ。その事実は受け入れることができる。だが社会が求めるような「女性」として自分のことを表されるのはなんだか違う気がしてならない。

女性ばかり我慢してない?心にはいつも、男性に対する羨望があった

私が自分を「女性」と表すことに抵抗がある原因として、男性への劣等感がある。

私は今まで生きてきて何度も、男性になりたいと思ったことがある。しかしそれは、自分の心と体の相違によるものではなく、憧れの感情からくるものだった。たとえば、有名人のあの人みたいになりたい、というような願望と似たようなものだ。

私が初めて男性に憧れたのは初潮を迎え、自分の体つきがどんどん「女性」らしくなってきた中学生の頃だった。生理がくるたびに、なぜ女性は毎月こんなにしんどい思いをして、将来子供を産むかどうかもわからないのに出産の準備なんてしなければならないんだろうと思った。それと同時に生理がない男性を羨ましく思った。他にも、男性の方が体力的に優れていること、人前で堂々とあぐらをかくことができること、多少言葉遣いが荒くても許されるのは、どうして男性だけなのかと思った。女性でもあぐらをかきたいし、荒い言葉遣いをしたい気分にだってなる。なのに、どうして女性がそうすると、はしたない、品がないと言われてしまうのだろう。

それに、女性は男性に比べて体力的に劣るので、性犯罪の被害者の多くは女性だ。女性であるというだけで、性犯罪にあうリスクが高くなってしまうことだってある。例えば深夜にコンビニに行きたくなった時、男性なら問題なく行くことができるが、女性であれば自分の身を案じてそのような時間帯には外出しないという人が多いのではないだろうか。こんな時、男性をとても羨ましく思ってしまう。

私は私らしく生きたい。性別の枠を超えて自分を表現できる社会に

こうやって違和感や劣等感に苛まれる私だが、自分の性別を受け入れながら生きていきたいと思っている。
そもそも自分が女性だからといって、世間が認める「女性」である必要はないのだ。性別がなんであろうと、私は私らしく生きていけばいいだけの話なのだ。

最近では、性別とは多様性のあるものだと世間でも認められるようになってきているようだ。LGBTQやXジェンダーなどの言葉を目にする機会も増えた。性別は男性、女性の2通りではなく、十人十色という考え方が、これからもっと世間に浸透して、どんな性別であっても生きやすい社会になって欲しい。私もこのエッセイを通して、そんな社会を作るための一歩として貢献できていれば幸いだ。