大学に入学して5年。
高校生までのあの狭いコミュニティの中とは比べられないほど、私の生きる世界は広くなりました。

それに伴って感じるのは、自分って大人っぽく見えるのだということ。
正確には、高校生の時からそう言われていました。
高校時代のあだ名は「みうねぇ」
お姉さんっぽいからだそう。
自分としては自覚は全くありませんが、まぁそう見えるんだな、程度で当時は流していました。

しかし、大学に入学し、初対面の方とお話する機会も増え、さっき出会ったばかりの人に
「大人っぽい。落ち着いている。しっかりしている」
と言われることに違和感を感じずにはいられませんでした。

皆が皆、口を揃えてこう言う。
深い意味はないのだろうし、誉め言葉として言ってくれているのだろうという人もいる。
でも腑に落ちない。

何だか、
「あなたは取っつきにくい人ですね」
そう言われている気がして、その考えが脳みそにこびりついて剥がれないのです。

何故初対面の方にこう思われるのか分からないので、この数年考え続けてはいるのですが。

私に対して「身構える」に似た感覚を持っているのでは

自分を客観視するのは難しいので、とりあえず身近な大人っぽい女性を思い浮かべてみます。
彼女たちは、背筋がぴんとしていて、誰とでも笑顔で接し、相手に合わせられる、気遣いのできる女性たちでした。
落ち着いたトーンで話し、騒いだりしません。
裾の広がったワンピースが誰よりも似合う。
同じ女性として、憧れを抱きます。

この「憧れ」。

皆さんは、上司・先輩・先生、憧れの存在はいますか?
あの人みたいになりたい!と感じるような。
その憧れの人に声をかける時、大なり小なり、勇気が必要ではありませんか?
私は少し必要です。

だって憧れの人は、いつだって心優しく迎え入れてはくれますが、
「相手に嫌われたくない」
と思うと、身構えちゃう。

この身構える感覚。

自分が誰かの憧れの存在だ!なんて大それたことを言うつもりはありません。
ただ、私に対して「大人っぽいね」と言う人の中には、この「身構える」に似た感覚を持っている人がいるのではないだろうかと考えたのです。

「大人っぽいね」と同時に、心のシャッターを閉められる

私という存在が、相手に居心地の悪さを与えているのではないか。
私が対等に接したいと思っている目の前のこの人は、私をどこか遠くの交わらない国の住人として遠ざけ、
「あなたとは仲良くなれないや。」
と思っているのではないだろうか。

自意識過剰だ。
自分のことを人より上の存在とでも思っているのか。おこがましい。
気にしすぎではないか。

分かっている。考えすぎだと。

でも私には見えるのです。
目の前のあなたが、私と少しおしゃべりをして、「大人っぽいね」と言うと同時に、心のシャッターを閉めるのが。

顔に、表情に、出ている。

目の前のあなたに拒絶される感覚。
まだ何も知らない、もっと知りたいのに。
知った上であなたとの関係を築きたいのに。

人との会話の進め方のコツは掴めたけれど

自分に至らない点があると思います。
元々、場をわっと明るくさせられる人間ではないし、人の話は聞く方が好き。

私の存在が居心地が悪いのなら、少しでも相手に気分良く過ごしてもらいたくて、上手に会話を続けられるよう、技術というほど大層なものではないですが、色々と調べ、学びました。

お陰で人との会話の進め方のコツが掴めました。
前より相手の好きなもの、考え方を聞き出すのが苦じゃなくなりました。
その点は私の宝です。
気づくことができて本当によかった。

でもやっぱり、目の前のあなたの心のシャッターは閉まったまま。

本当の私は甘ったれた子どもなのに

私の何がダメなのでしょうか。
そんなに遠くに行かないでほしい。
だって数分前に席についたばかりなのに。
私のコミュニケーション能力、歩み寄り方は、確かに上手な人に比べれば拙いものです。
でもどうやったらこの状況を打破できるのか、未だに分かりません。

もういっそ、開き直って
「私はこういう人間。私が遠い国の人なら、あなたも遠い国の人ね」
と、どこかの王族の気分で道の真ん中を闊歩できたら、今よりは幾分か生きやすいのかもしれません。

でも中途半端な私は、道の真ん中も歩けなければ、かと言って端っこを歩くことにも文句を言っている。

「大人っぽい」

私はこの言葉からかけ離れた、甘ったれた子どもなのです。
私はこれから、どんな大人になりたいのでしょうか。