5年ほど前のことだ。当時、私は大学生だった。
どういったいきさつでその話題になったのか、いまとなっては、さっぱり思い出せない。

一緒の授業をとっていたクラスメイトの中に、彼女はいた。
彼女は、どちらかと言えば、かわいらしい服装を好んでいたのだと思う。なので、いつもスカートを履いていた。たしかあれは、夏で、スカートの裾からは、そのままの足が伸びていた。

授業が終わり、彼女が教室を去った後、私は何人かの同級生ととりとめもない雑談に興じていた。いくつかの話題が行き過ぎた後、同級生の1人がこう言った。「ていうか、あの子、足の毛、そらないのかな?」その問いかけに「そうだよね」と他の子が言った。同級生の言うように、彼女の足には、毛が生えていた。

私は、その言葉を受けて、「毛をそりたい人はそればいいし、そりたくない人はそらなくていい。そんなのは、個人の自由じゃん」と思った。しかし、それを口にすることができなかった。そして、その場に黙って座っていた。

毛をそらないことで、人に迷惑をかけているわけではないのに

同級生の言葉には「女性は、つるつるの肌でなければ、肌を見せてはいけない」なる価値観が内包されていたと思う。けれど、そんなことはいったい誰が決めたことなのだろう。毛の有無によって、着られる服が制限されるとは、思いもよらなかった。私は、彼女の服装がいつも好きだった。単純にセンスがいいと思っていた。

そう考える一方で、私も陰では同じように思われているのかもしれないと思った。自分自身、それほど熱心に剃毛しているほうではなかったからだ。

毛をそらないことで、人に迷惑をかけているわけではないのに、なぜそんな理不尽な物言いをされなければならないのかと思った。あれは、それなりに時間もかかる。肌を傷つけるし、摩耗させるのだ。まあまあのコストとリスクをはらう行為なのに、そこまでの強制力があるなんて。しかし、そういった気持ちを上回るほどに、自分は文化から浮いているのではなかろうかとの恐怖が勝り、独りで、ますます押し黙るほかなかった。

なぜ私は熱心に毛をそっているのか、わからなくなる

それからは、夏であっても、人前では絶対に、何も身につけていない足は見せまいと心に誓った。そして、社会人になってからは、通勤中に見た電車の広告に脳みそをビビビと刺激され、脱毛サロンに通っている。

脱毛サロンに通うようになって、剃毛にかかる時間は短縮された。周りの目を気にする回数も減った。そのことは、一種の恐怖からは、心を解き放たせてくれたのかもしれない。

だが、もちろん、あの日、同級生に感じたわだかまりを取り除いてくれたわけではない。むしろ、サロンに行く前日、かみそりを肌にあてるたびに、あの日の私はなんて軟弱だったのだろうと思えて仕方がなくなった。そして、私は、なぜ体毛を根絶せんばかりの勢いで、熱心に毛をそっているのか、よくわからなくなり、時々、滑稽にさえ思えてくる。
やっぱり、あの時、同級生に思ったことを正直に言えばよかった。そうすれば、何年にわたって、澱を溜めこみ続けることもなかっただろう。

自分の体をどうするかは、自分が決めていいんだ

正直なところ、たとえば、今、同じ局面に遭遇したとして、何かを言える自信があるかと言われるとはっきりと「うん」とは答えられない。でも、声をあげられる自分でいられたらいいなとは思う。女の子の肌はつるつるでなくていい、自分の体をどうするかは、自分が決めていいんだと言える私でありたい。