「身体が細すぎて他の人と同じように踊っているように見えない」
いまにも湯気が立ち上りそうな真夏の猛暑の中、部活でダンスの練習中に友人から言われた言葉だった。
私は小さな頃から踊るのが好きだった。実家には、テレビで流れている曲に合わせて楽しそうに踊っている3,4歳頃の私が写ったホームビデオが残っているぐらいだ。ただ、踊ることは好きだったが、自分の得意分野だとは思っていなかった。どこかの教室で習っているわけではなかったし、いざ部活に入ると、ダンスが上手い子なんていくらでもいたからだ。振りが覚えられていない、だとか、みんなと合っていないから、だとか言われた方がまだマシだった。ただでさえ、上手い子についていくのに必死だった小柄な私は、自分の身体自体を否定されたような気がしていた。
思春期になると、鏡に映る自分の姿を気持ち悪いと思うようになった
私は2,726gで産まれた。大きすぎるわけでもなく、かといって未熟児でもなく、ちょうど平均ぐらいかもしれない。ただ、母親が言っていたのは、並んでいる赤ちゃんの中で一番足が細かったということだ。
小学生の頃は、朝食で6枚切りのパンの半分しか食べられなかった。そんな調子だったので、特に身体が大きくなることはなく、細くて小さな子どもだった。あまりに細すぎるので、祖母からの当時のあだ名は「骨皮筋衛門(ほねかわすじえもん)」(骨と皮と筋だけで、ほとんど肉のないように見える人)だった。
それから、思春期になると、いよいよ私は鏡に映る自分の姿を気持ち悪いと思うようになっていた。細すぎる腕や足、全くと言っていいほど存在しない胸、皮膚から透けて見える肋骨、ペタンコのお尻…。華奢ではなく、貧相という表現の方がしっくりくるぐらいだった。周りのみんなが痩せるための方法を探している中、私は太るにはどうしたらいいのか、ということを真剣に考えていた。しかし、私の切実な悩みは、友人たちの多くには伝わらず、共感はおろか、一蹴されるだけだった。
なぜみんながそんなに痩せたがっているのか分からなかった
話をよくよく聞いていると、彼女たちの目指している身体は、同じように細くても私とは違う身体、いわゆる“見映えの良い細さ”を求めているのだと感じるようになった。その当たり前とされている美しさの標準と自分の身体とのギャップを感じて、私はどこに存在していいのか分からなくなった。ただただ、この身体で生きることの心細さばかりが募っていくのだった。
なぜみんながそんなに痩せたがっているのか分からなかった。私にとっては、彼女たちの身体の方がずっと健康的で美しく見え、羨ましかった。肌を露出する季節なんて最悪だったし、華奢で褒められたことなんて全然なかった。
そもそも、ある一定の基準を上に外れれば、デブだと揶揄され、下に外れれば、ガリガリで気持ち悪いと判断される世界って何なのだろうか。そして、いったい何のために私たちは理想の身体を追い求め、時に焦ったり、時に悔しい思いをしたりしているのだろうか。
本当は、ただの個体差で、私たちはみんなオールライトだ
悲しいかな、この世界で、「私は私のままで美しいのだ!」と思い続けることは難しい。実際、テレビや雑誌には今もたくさんのダイエット方法で溢れているし、普段乗る電車の中でも、脱毛サロンやジムの広告が目に付いてしまう。ある一定の基準をクリアしろ、とそこかしこにプレッシャーという名の空気が漂っている。
でも、その空気、読む必要があるだろうか。「空気は読むものではなくて、吸って吐くものだ」と、あるドラマの主人公が言っていたように、吸って吐くぐらいでちょうどいいのではないだろうか。本当は、みんな知っている。身体が大きくても、小さくても、健康を害さなければ問題ないこと。足が長くても、短くても、どこにだって歩いて行けること。パッチリした眼でも、細い眼でも、世界中の美しい景色を見ることができること。本当は、ただの個体差で、私たちはみんなオールライトだということ、あなたも知っているはずだ。
今も「(細すぎる身体に対して)大丈夫?」と聞かれることが多いけれど、私はこの言葉が嫌いだ。大丈夫?と聞かれれば聞かれるほど、自分は異常なのではないかという気持ちになってくるからだ。でも、私は私自身に大丈夫だと声をかける。この世界で、自分の全てを肯定できるようになるには、あとどれぐらいの時間がかかるかは分からない。とりあえず、分かっていることは、私もあなたも彼も彼女も、何の問題もないということ。ただその事実だけだ。