就活してたとき、「ジェンダー学をやってることは主張しないほうがいい」と面接指導で言われた。「ジェンダー学って社会で役に立つの?」といぶかしげに面接官に聞かれたこともある。私は印象を落としたくなかったし、内定が欲しかったから、穏やかにジェンダー学の効果と効能を滔々と話した。機知に富んだ女性に見られるチャンス。帰りの電車で、社会の認識は所詮こんなもんか、と落胆し呆れた。

就活が終わってからハロワの担当の人に話したら、「それはあなたへの試練、とりあえず内定おめでとう」と言われた。私の心にささったとげは抜けなかった。でもしょうがないと、とげをそのままにした。

飲み会の席で放たれた「おねえみたい」

就職先では、歓迎会も兼ねた飲み会が開かれて、そこでも私がジェンダー学をやってたことを聞かれた。「ジェンダーって、あれだよね、エルジービーティー?とかってやつ?」聞いてきた人はからかうような笑いを含んでいる気がした。考えすぎかな。私はまた滔々と答えようとしたけど、顔が勝手に引きつっていた。お決まりの「彼氏いるの?」「セクハラ発言してたらごめん(笑)」も言われた。テンプレ発言すぎて「これ進研ゼミでみたやつだ」みたいな気持ちになった。

あとすこしでこの悪夢も終わる。
新人だし、歓迎される側だし、ちゃんと振る舞わなきゃ。にこにこしていれば、私は無害な新人社員として印象をもってもらえる。
「じゃ、締めよっか!」その言葉を聞き、一同が立ち上がったので安堵した。そのとき、その先輩は、ずっといじっていた隣の席の男性社員に向かって、「まったく、ほんとおねえみたいだよな、こっち(手をあごにあてるしぐさ)?」と笑って言った。

愛想笑いも演技もできなかった

そのとき、これまで出会った友人の顔が思い浮かんだ。同性のパートナーとともに楽しそうにコスプレをしてた友人、パレードで一緒に仕事をし、ドラアグクイーンのメイクをおとしてから「誰でしょう?」とウィンクしたお兄さん、理想の恋愛の話をした友人。友人たちがこれを聞いたらどう思うんだろう。こんな風に思うのはただの偽善だろうか。そうかもしれない。でもわたしは息を吸い込んだ。

「それはセクハラだと思います」私は気付いたらそう言っていた。「なんか俺、守られたなあ」いじられてた男性は驚いた顔で言った。
別の可愛らしい先輩はぎょっとした顔を私に向けた。きっと怖いと思われただろうなぁ、とへこむ。私の印象作りは、わずか入社数日で失敗した。でもとげの傷みは少し減った気がした。

そのあとは「おねえみたい」と発言した先輩を擁護する声が頭に響いた。なぜ相手を擁護しようとしているのだろう?とと思いつつも、場の空気を壊したのではないか?入社したての新人が生意気なことを言って失礼なのではないか?でも本当に失礼なのはどっち?いやいや、せっかく打ち解けようとしていた先輩のお気持ちを無下にしたのでは?
などと、自分のした行動について、様々な思いや不安が駆け巡った。

言ってよかったのかどうかわからない。でも言わずにはいられなかった。愛想笑いも演技もできなかった。

大きな波のなかで、心にとげがあるまま、波に逆らう

あれから1年が経つ。私は幸運にも職場で気まずくならずに、先輩たちと仕事ができている。愛想笑いで済ませたりするテクニックもちょっと習得した。
職場の人のことが嫌いなわけではない。もちろん色々な人がいるけれど、家族を大切にし、若い人を大切にし、仕事を丁寧に行う先輩方を見ていると、「空気をこわす」ようなこんな不満や悩みは、我慢したほうがいいのかな、といつも思う。

ジェンダー学を学び、入社したてのころは、「私は流されないぞ!」と思っていたのに、会社での人間関係にひびを入れないようにと思えば思うほど、じわりじわりと社会の波は私をゆるやかに、しかし確実にさらおうとしてゆく。

それでも、「しょうがないよね」で終わりにしたくない。終わりにしてしまったら、どこかでまた、ささったとげは必ずいたみだし、恨まなくていい人たちまで、恨みそうになってしまうから。
大きな波にもまれながら、それでも私の波を、小さくてもいいから起こしたい。

声をあげることはしんどい。でも黙ることはもっとしんどい。だからまずはここを観察していくことからはじめよう。したたかに。