物語の海から顔をあげた時。
「もしわたしが、あの登場人物だったなら。」
心の底でそっと。そんな風に願ったことがある方はきっと多いだろう。
しかし、わたしの場合その渇望がとても過度であり、その眼差しが現実の世界の周囲の方々に向いているという点において、多くの人の持つ「憧れ」という観念からは逸するものであった。
毎日毎日、わたしがこの子だったら、この人みたいだったら。そんなことを日常的に考え、大学3年生になるまで、自分自身の現実的な存在を受け入れることから逃げていた。なぜかはわからない。でもたしかにわかることもあって。誰かになりたいと願いは大切な人との幸せを願った祈りのようなものだったということ、そう願う心の底で泣いていたわたしがいたということ、そんなこころとからだすべてが、わたしだったということは確かなことだった気がしている。
存在そのものがコンプレックス
「ずっと、ほかの誰かになりたかった。」
「そう考える思考」、それがわたしのアイデンティティなのだと思っていた。つまり、自分の存在を否定して誰かのいいところを常に取り入れよとすること、そうして目指す自分の姿と向上意識が、わたしが認識することのできる、絶滅危惧種のようになかなかふれることのできない「わたし」であったと思う。自分で創った戒めと希望の刃を突き刺して、突き刺されて、消えていってしまいそうな、そんな「わたし」だった。
何がコンプレクスだったのかと聞いてもらうとして、心のなかには次々と数えきれ劣等感が絡み付いた葛藤が浮かんでは、心をざわざわと撫でて、やるせなさげに沈んでいく。
「わからない。」
それ以外の言葉を口にしたなら、きっと、泣き崩れてしまう。お化粧をして、好きなお洋服を着る。アイデンティティーを型どって、喜怒哀楽を確認して。そうやって一所懸命に準備したわたしが崩れてしまうことが何より怖くて。心とからだがちぐはぐなわたしのコンプレックスは、増えていくばかりで。もがけばもがくほど、底無し沼に落ちていくような毎日だった。
しかし、わたしには特技があった。「もしかしたら。」と思考を巡らし、考え続けることである。そしてこの特技は、どんなにぼろぼろなわたしでも、見捨てずに話を聴くよ、自分にできることをさせて、と仰ってくださった方々がいてくれたから、守ることができたものだ。
「なんでわたしはこんなにだめなのだろう。」
そうやって膝を抱えるたびに、
「でも、もしかしたら。」
そうやって、こころのなかでつぶやいてきた。それは、自分を否定していたころから培ってきた力でもあって、でもそのころと明らかに違ったことは、独りではないということに気が付かせてもらっていたことだ。わたしたちの「もしかしたら。」を考えること、誰かと見たい景色があって、見てほしい景色が当て、見させてもらいたいあなたの表情があって、見てほしいわたしの表情があったこと。
わたしのことはわたし自身の言葉で。こころにネーミングをする目的は、こころを束ねるためではなくて、掬いたいと想ってくださった方の願いであるのではないかと思うから。仮にそのネーミングが誰かを批判するものであるとして、当事者の立場からそれが違うのかもしれないと感じるのであれば。そのネーミングを行ってくださった方へ心からの敬意を込めながら、語りだすためのきっかけを下さったことに最大級の感謝を抱きながら、大切な人に守ってきてもらった「もしかしたら力」を抱きしめながら、わたしの言葉でわたしのコンプレックスを語らせてほしいと思う。
今ならそんなことはない、と言うことができる。でも当時は存在そのものがコンプレックスに感じられてしまうほどに、コンプレックスに絡めとられていた。でも、悩み続けてた日々が、コンプレックスは「願い」のもつれだということを教えてくれた。そうだとしたなら、わたしの心と身体の傷も、コンプレックスも、きっと「願い」のすれ違いによるものだと思うから。混沌とした色彩の悲しいほどの美しさを、教えていただいたから。誰も悪くなくて、何も悪くない、命の削り合が産み出した美しさを、憂うことができるようになったのなら、はじめて、受け入れられない自分の存在というコンプレックスを愛せるようになる気がするのです。
コンプレックスがあったからこそ
しかし、わたしという存在をコンプレックスとして扱ってきた当時のわたしは、文字通りに、心も身体もボロボロでした。そのときに、たくさんの方に心配と迷惑をかけてしまったことは今でも悔やんでも悔やみきれないですし、一生忘れないつもりです。
しかし、心配と迷惑をかけてしまった以外のこと。周囲の人が引いてしまうほどボロボロだった心と身体は、今では愛そうとすることができています。「愛」なんて何だかわからないまだ青い人間ですが、それでも精一杯に。そんな風に考えられるようになってから、出会う人や景色がとてもいとおしく見えるようになりました。
一般的な女の子の視点から見れば、きっとコンプレックスの塊と捉えるにふさわさい心と身体は、わたしにとってはわたしでしかないのです。最近になって、傷と弱さの美しさを知っている自分を、少しだけですが誉めてあげられるようになりました。そんなコンプレックスがあったからこそ、出会えた願いもあって、今はその願いを胸に素敵な方々と一緒に日々学びながら過ごさせてもらうことができています。
コンプレックスを飛び越える、と題名をつけてしまいましたが、もしかしたら飛び越える必要もないのかもしれません。コンプレックスの美しさを共有しあえる社会になればいいな。そうすれば、わたしもあなたもコンプレックスなんて概念は飛び越えて、ただのわたしとあなたになれるのではないかな、そのときのわたしのあなたの表情はどんな風に咲くのでしょうか。コンプレックスに膝を抱えた日々を心に留めて、それでも一生懸命に生きられているあなたの姿は、いつだってわたしの希望でした。その感謝を胸いっぱいに抱えさせてもらいながら、少しだけ成長させてもらえた気がするわたしは、あなたの力になることができたら嬉しいなと願っています。頑張ります。