鏡を見つめると、自分の顔が映し出される。
わたしは典型的なはれぼったい「一重まぶた」だ。
目はちょっぴりつり上がっていて、小さく表情の表れにくいくちびるとあいまって、相手に不機嫌そうな印象を与える。

親に言われた「二重に産んであげられなくてごめんね」

遺伝子の問題とはいえ、目というパーツはわたしに劣等感しか生み出さなかった。親からは、二重に産んであげられなくてごめんね、といわれ、一重とは劣ったものなのだという価値観、いわば「のろい」を小さな頃から植えつけられていた。メリハリのない顔、小さな目。中学生の時、担任の先生から「殺し屋のような目つき」「死んだ魚の目」と揶揄されたこともある。自分の顔が、とても嫌いだった。

ずっと、目を筆頭として特徴のない顔つきがどうしても受け入れられなかった。

わたしが仲良くなる友人はなぜか、揃いも揃って二重まぶた。周りがわたしの外見を「可愛い」というティッシュ配りのような誰にでも分け与える言葉で褒めるたび、一重まぶたという「可愛くない」コンプレックスを抱く、わたしの劣等感を酷く駆り立てた。

でもあるとき、私の価値観がひっくり返ったのだ。それは、とある歌に出合ったからだった。

自分の憧れである“アイドル”が「明日、目が覚めたら美しくなっていたらいいな」というような歌を歌っていたのだ。

私自身も毎日鏡を見て、遺伝とはいえどうしてこういう顔に生まれてしまったんだろう、と自問自答していたから、自身にぴったりと当てはまる言葉に共感を覚えた。

誰にだってコンプレックスはある。だから

これを書いた作詞家は自身のライナーノーツのなかで「どんなに“かわいい”と言われている子にも、誰もがどこかにコンプレックスがある」と綴っていた。

この解釈を読んだ時、歌詞がストンとこころに落ちた。

誰にだってコンプレックスはある。だからどんなに可愛い子でも鏡を見つめて、あとまつ毛が2ミリ長かったら、唇が厚かったら、そんな風に自分の理想を思い浮かべるのだ。

そう考えたら、わたしの一重まぶたはコンプレックスではあるが、それは生まれ育った環境と、自分の顔の理想像、が一重まぶたをそういう存在にさせていたことになる。

劣等感を無くすおまじない

そして、理想を追い求めることは向上心にもつながる。残念ながら私には、メスで手術される様子を自分の目で眺める必要がある二重整形をする勇気はない。

だからこそ、化粧でどれだけ自分の目を大きく見せるか研究するのがとても楽しい。そう、一重というコンプレックスは、いまやわたしにとってお化粧を楽しくさせてくれる強みなのだ。

「コンプレックスは誰にでもある」という考え方は、わたしの劣等感を無くすおまじないである。

ペンネーム:タムラ

多趣味で雑食。尊敬している人はつんく♂さん、星部ショウさん、嗣永桃子さん。好きな作家さんは浅田次郎さん、堂場瞬一さん、最果タヒさん。