思えば何事にも本気で取り組めない子どもだった。
とくに努力しなくてもどうにかなっていた幼少期を経ていたからだろうか。
当時の私は努力しなくともある程度こなせる、いや人並み以上に結果を出せる自分自身に満足していた。「努力」との関係性にその後何年も悩まされると知らずに。

努力の仕方がわからなかったせいか、ある程度の「努力」を必要とする事象にはことごとく失敗してきたように思う。その代表例はピアノだ。
ピアノ歴だけは長く、幼稚園に上がる前のおそらく2、3才頃から高校生になるまで続けていた。しかし練習を全くと言っていいほどしなかったので、もちろん技術は向上せずいつまでたっても初めて数年の人が弾くような曲しか弾かせてもらえなかった。

しかも毎年小さな子供に混じって発表会にも参加していたのだから驚きだ。恥はなかったのだろうか。今でも私たち家族には私の発表会での失態が脳裏に焼き付いている。

発表会前でもピアノに触るのはレッスンの時だけ

それは私が中学校に上がって初めて出演した発表会でのことだった。私は、「魔女の宅急便」の挿入歌「海の見える街」を演奏することになった。しかし先述したように練習をすることはなかった。先生が家にレッスンに来てくれる毎週水曜日にしかピアノに触れなかったようにも思う。
そんな状態では発表会に出るレベルにはならないことは誰でもわかる。出ても恥をかくだけだということも。
今でもなぜ当時のわたしが「出ない」という選択をしなかったのかは謎だ。何かこだわりがあったのだろうか。先生に怒られ続けたレッスンも辛い日々だったが、その日々とは比べ物にならない地獄が私を待っていた。

発表会当日、私は曲のイメージにあうようなキキのような黒いワンピースに大きな赤いリボンのカチューシャ、そして髪も美容室でセットしてしてもらうといった完璧な発表会スタイルだった。
中学生にもなってそこまで張り切るのもそこそこ痛い話であると今では思う。
しかし当時の私はそのことに全く違和感をおぼえず、祖父母などを発表会に招待したのだ。
さらにその年の発表会には父の知り合いまで来ていたのだ。

どんどん順番が迫り、ついに私の番になった。
私の通っていた教室の発表会では年齢順に出番があったので、私は終盤だった。

最終チェック…そもそも暗譜もできていない

控え室に行くと、他の生徒も緊張した表情で楽譜で最終チェックをしていた。
わたしも負けじと楽譜を取り出したがそもそも暗譜もできていない。
確認ではなく暗記作業が始まった。迫る出番、そして発表会独特の雰囲気に飲まれ徐々に焦りが出てきた。そして、その焦りが私にとって過去最悪の発表会(いや、教室きっての過去最低の演奏だったかもしれない)を生んだのだ。
ライトに照らされたステージを歩きピアノの前へと進む。
数歩で着くはずのピアノがとても遠く感じたのを覚えている。
やっとの思いで椅子に座り先生の読み上げる自己紹介文を聞く。
せめてもと自己紹介には「部活が忙しくて大変でしたが一生懸命頑張りました」と半分嘘のような言葉が添えられた。
先生のアナウンスが終わり、遂に演奏が始まった。

手が震え頭が真っ白になった

ついさっき暗記した楽譜を思い出し必死に演奏する
出だしは良かった。しかし、中途半端な暗記のせいで、途中でどこを弾いているのかわからなくなり、止まってしまったのだ。次の箇所を探している時間は何時間にも思えた。手が震え頭が真っ白になった。どうにか続きを思い出し弾き続け、やっとの思いで弾き終えた。
ステージから降りる際、祖母が花を持ってきてくれたのがとても情けなく、そして申し訳なかったことを覚えている。
しかし発表会を終えた途端、申し訳なさや情けなさといった言葉は私の脳内から消え去った。脳が麻痺したのか、図太いだけだったのかは定かではないが、驚くことに演奏を終えた解放感しか感じなくなったのだ。
その後の祖父母や父の知り合いを交えたディナーでも普通にしていた記憶がある。
よくあんな恥ずかしいことができたと今では呆れるのを通り越し、感心している。
さらに演奏中の一瞬にしろショックを受けているのも恥ずかしい。練習をしていないから弾けないのは当たり前だというのに。
おそらく、見にきてくれた家族や先生が私以上に恥ずかしい思いをしていただろう。申し訳なく思う。
このようにして私の地獄のような発表会は終わった。

「努力」できない人間だと認めることにしました

冒頭に書いたように私がいかに努力できない女かわかっていただけただろうか。
「努力」は改めて難しいものだと思う。成功体験を得るためには「努力」しなければならないからだ。今では私は「努力」できない人間だと認めたので少しは楽に生きれるようになったが、受験などでも努力との関係には悩まされた。受験勉強を始めたきっかけも「暇になった」というおかしなものだった。そんな動機の人間が努力の末に目的を達成する受験勉強に集中できると思ったのが間違いだった。

私は塾に通っていたのだが、そこでは日々の宿題やタスクが決まっておりその量をこなすにはもちろん努力が必要であった。しかし私は、家族が旅行に行くと聞けば付いて行き、Netflixに入会してオリジナルドラマに明け暮れ、クーラーの効いた部屋で犬とゴロゴロするというおおよそ努力とは程遠い行為で一年を無駄にしてしまったのだ。
結果はみなさんが想像できるように「不合格」
周りの「不合格同盟」友達が悲嘆にくれる中、あまりショックを受けなかったのだからよっぽど頭が変なのだろうか。
ショックを受けない自分にショックを受けるという謎の現象に陥ったのを覚えている。

しかしそれで吹っ切れたようで、「私は努力できないんだ」と完全に認めることができたのだ。いや認めざるを得なかったのかもしれない。とにかく大学受験という努力するにはもってこいのチャンスをNetflixと愛犬のせいで潰した(と思いたい)私は極力努力せずにより良い生活を手に入れる方向へとシフトチェンジしたのだ。「そもそも努力せずに目的を達成できたらそれに越したことはない。だから、私はそうしてるだけ」そう思い込むことにしたのだ。

私はこれからもそこそこの努力とネタにできる程度の失敗で人生をやり過ごすのだろう。
あー、努力できる人間になりたい。

ペンネーム:水面

文学性を感じるものやことが好き
退廃的で耽美なものに惹かれるけどサブカル女ではないと信じてるハタチ
学校に通うことが永遠のテーマです。