普段、終電を逃したあとにカラオケ行く?と男に言われると、どうせカラオケでキスしてからホテル行く流れになるんだから最初からその場所に行けばよいだろうと情緒なく思ってしまう。臆面もなく路上で自分からキスして、挑戦的にホテルにしませんか、と言うくらいの大胆さは持っている。お気づきだろうが私は男性とセックスするのが大好きだ。

この名称は世間的に不名誉だとされているから使いたくはないのだが、私はいわゆるビッチってやつだ。

ノリで寝てしまい、別に全然気持ちよくなくて頑張って喘いでいたら「もっと自分を解放していいんだよ」と言われた時には、もうこんなインスタントなセックスはやめようと自分と約束した。その後、今日は寝ない、ご新規とはしないと誓った。そしてそれが何回破り去られたか。たまに、快感に対してそのくらいゆるいのが心底いやになる。

性を謳歌しようという女子が男性に軽く扱われるのが納得いかない

セックスとは、生命の起源であり、快感であり、逃げ場であり、日常的なコミュニケーションであり、魂の殺人をすることも、愛し愛されているという至福をもたらすこともある。神聖なものであると同時に卑猥で、汚れ合うのに気持ちいいという矛盾を孕んだ行為だ。
そんなわけのわからない素晴らしいものを、誰彼構わずやるクソビッチだと自己嫌悪する。いや、一応選んではいるのだが、恋に落ちた人以外とするのは事実だ。

でも、したいんだもん。気持ちよくなりたいんだもん。なんで下半身が奔放な男の名称は、遊び人とかヤリチンくらいしかないのに、女が同じことをするとビッチ阿婆擦れ尻軽淫乱ふしだらヤリマン、これだけの名前の種類があるのか。女は本音だけではなく性欲さえも折りたたんで貞節を守るべきだという社会の風潮が影響しているように思う。

そして、性を謳歌しようという女性が男性に軽く扱われるのが納得いかない。簡単にやれる女として見ないでくれ。やれるんじゃなくて、私が選んで男を抱いているんだくらいの気持ちだ。セックスが好きというと「誰でもいいんでしょ」などと言う男や、「風俗で働けば?天職だよ」と言う男はくたばってしまえとすら思う。体の中に異物が入るんだぞ、誰でもいいわけあるか。

欲求に従うだけなのに、様々なレッテルが貼られるセックス

私は抱かれているのか?むしろ好みの男を選んで抱いているくらいの気持ちなんだが。セックスの相性は付き合う上で大切で、性の不一致で別れるカップルもいるくらいなのに、最初にセックスして試してみたらビッチ認定証が与えられるのは何かおかしくないか。

付き合う前にセックスしただけで、もう本命にはなれないよ、もっと自分を大事にして、と言われるのも違和感がある。でも、簡単にセックスすると、都合の良い女に成り下がる可能性もあって、そのことにも悔しさが募る。

しかし、私が性欲モリモリの男だったらそんな女は格好の餌食で、本命にはしないけど割り切りで楽しむなら最高の相手だと思うだろうなと想像はできる。
だからこそモヤモヤする。欲求に従うだけなのに、様々なレッテルが貼られるセックス。

主体的ビッチと被支配乙女の狭間を生きている

しかし、文句を並べ立てたが、性を主体的に貪るのではない自分も存在している。だめ、とか、いや、とか、恥ずかしい、とか言えば興奮してくれるんじゃないかと甘えながら男を舐めているのだ。そして男に組み敷かれて負ける快感も知っている。可愛らしく演技している自分もなかなか気に入っている。文化の中に取り込まれている自分を感じる。

性の悩みは尽きない。私は主体的ビッチと被支配乙女の狭間を生きながら、どっちつかずでくよくよしている。両方が自分であると受け入れつつ、うまいこと折り合いをつけたいものだがきっと明確な答えはないのだろう。ただひたすらやっかいだ。やっかいだからこそ面白い、と性の探求者になるまで振り切れる日々は遠そうだ。

ペンネーム:滝薫

元美容ライターの人生模索中ニートみたいなライター。最近は短歌詠みながら焦ってます。学生時代はすっぴんで三限に遅刻する自堕落さだったが、最終的には口紅コレクションが40本を超えるくらいの美容オタクになりました。
Twitter:@Hannahkuku0819