いわゆる思春期、自分や他人の見た目に敏感になる年頃に、自分が一重であることはとても大きな悩みだった。「〇〇ちゃん、目おっきいよねー」「やっぱりぱっちり大きな目がいいなあ」そんな会話に、胸がチクリとした。

自分の見た目に対する客観的な認識は、やはり周囲からの評価や指摘によって固まっていく。私はよく、目が切れ長、クールビューティと言われたりした。可愛らしい顔が好みだった自分にとっては、はっきりした男顔がコンプレックスだった。いくら周囲から、切れ長な目と言われても、笑うと目がなくなるし、どれだけ化粧をしても、自分の理想には何かが足りなかった。

いわゆるビジュアルで売っている芸能人は一様に二重だし、雑誌に出てくるモデルも例外なくみな二重。私がなりたい顔の、最低ラインが二重で目が丸いことだった。

二重へのあこがれが消えなくて 

高校に上がると、二重テープをするようになった。糊タイプの二重用化粧品では瞼がかぶれてしまったのだ。しかし、友達からテープが見えていると指摘され、次第に使わなくなった。それに、顔のパーツ一つ一つが特徴的で大きい私は、目を二重にすると、どうも顔全体のバランスが悪くなる。

それでもやっぱり、二重への憧れは消えなかった。雑誌のメイク特集はいつも二重向け。ごくたまに見かける、一重用のメイクのページでは、一重と奥二重は一括りにされる。でも一重は二重幅が全く無いのだから、メイクの勝手だって、全然違う。二重幅がある前提のメイク、小さな目を補うだけの保守的なメイク。どれもコレジャナイ感がすごい。
まるで、二重にしなきゃ、メイクやオシャレは楽しめないよ、とでも言われているかのよう。
それに、モデルがみな二重なので、参考にできる対象がいないのだ。

ある日、何気ない会話で「え、よく見たら、一重なんだ!!目が大きいからてっきり二重だと思ってた」と言われた。
一重の中では確かに目が大きく目力が強いため、一重だと知って驚かれることは何度かあった。しかしそのたびに、心の中で「二重の人にはかなわない」と、勝手に自虐していた。

さらに「名誉二重だね」と言われたことは忘れられない。一重の友人からの、あなたは一重なのに二重に間違われていいね、という意味を込めての発言だった。
「名誉二重」、という言葉を聞いた時、強い違和感を覚えた。それは、二重と一重の間に、明確な優劣の差をつけられていることに、気づいてしまったから。
でも冷静に考えてみれば、自分だって、二重に見間違えられることに、すこし優越感を感じているじゃないか。
二重と一重の間に優劣の差をつけてるのは、自分自身だった。

「一重は美しくない」は取り払って

思春期を過ぎて大人になってから、ふしぎと二重への執着はなくなった。自分の特徴を理解し、切れ長な目を生かすメイクを自分で研究した。そのうち、自分の顔も好きになった。もちろんコンプレックスはたくさんある。でも、二重ではないと何かが足りないと、勝手に囚われていたころとは、自己肯定感が全く違う。

化粧品売り場に行けば、二重用化粧品のアイテムの豊富さに驚く。パッケージの謳い文句、整形やクセ付けによって二重になった人の体験談、雑誌の特集。日々触れる情報から、無意識に私達は、「二重が美の最低条件であり、必須条件である」そんなメッセージを植え付けられているように感じる。もっとも、そんなメッセージに囚われていたのは自分自身だった。

もちろん、パッチリ二重に憧れる気持ちは否定しないし、二重にした先に自分の求める美があるなら、その選択肢も肯定されるべきだと思う。

しかし、美の概念が多様化するなかで、一重は美しくない、という固定概念は、いい加減取り払われてほしいとも思う。

友人にも「私一重だからブス」「生まれ変わったら二重になりたい」こんな発言をする子がいる。その子は私からすればとても可愛らしく見える。一重だと美しくないのか?一重は何かかけているのか?

私のまわりの日本人の女の子を見ても、一重の割合は多いように感じる。
それなのに、一重を生かす特集はいまだに全然充実していなくて、一重のモデルを目にする機会は少ない。 一重の割合を考えれば、一重モデルだけを集めた特集だって、あっても不思議ではないのに。

そして、一重に対する肯定的なメッセージが発信されることもほぼ無いように感じる。一重に対するネガティブなイメージを取っ払って、自分の素材を生かすメイクを探すのも、とても素敵なことだと私は思う。派手なカラーを取り入れてみたり、大胆なラインを引いてみたり。何かを補うのではなく、思いっきり自分の素材で、楽しんでみる。

一重だからと卑屈になんてならなくていい。世間の決めた美の基準に当てはまらなくていい。多様な美、自分の素材を生かすことへのポジティブなメッセージが、もっと発信される世の中になることを願っている。